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2012年8月9日木曜日

われらゲームの世代36

注記

昔話をすると楽しくて仕方ないのだが、忘れてはならないことがある。今、僕があれやこれやゲームの昔話をしながら一方で考えているのは、過去を語るというのはどういうことなのかということである。さらに一歩進んでいえば、過去を語ることは、僕たちの未来にどういう影響を与えるのかを考えている。

極論していえば、僕は、過去は変えられない、という通俗的な認識を批判的に捉えてみたい。もちろん、バックトゥザフューチャー並みに過去を変えられるとか、人生を一からやり直したいと思っているわけではない。そうではなくて、過去は変えられないという僕たちが日常的に抱いているなんとはなしの感覚について、もう少しちゃんと考えてみたいのである。

というわけで、ちょうどさっき、こんなことを思いついた。過去は変えられない。未来は変えられる。けれどもこの認識は、どちらも程度問題なのではないだろうか、ということだ。例えば、過去は変えられないという中でも、過去の意味は変えられるという人はいる。僕もその意見に賛成だが、例えば昔ドラクエを遊んでいたとして、そのドラクエの意味を、遊んでいたということの意味を変えることは可能だ。ドラクエで遊んだせいで受験に失敗して、人生を台無しにしたという人に対して、むしろ、ドラクエで遊んだからこそ、今の自由な君があるのだ、ということはできるし、そういう形で本人が納得することもできる。

と同時に、しかし、ドラクエで遊んだという事実は変えられないというだろう。この点を、さしあたりは否定する気はない。事実を変えるという試みは、もしあり得るとしても、もう少し準備が必要になるだろう。

未来はどうだろう。未来は変えられるし、そもそも存在しないのだから自由だと言う。けれども、例えば、明日この世界から全ての核兵器を根絶するという未来は実現しそうにない。100年後ならばというかもしれないが、その力が他ならぬ君にあるかといわれれば、多分僕はないと答えるだろう。

一方で、僕は明日買う缶コーヒーの種類を変えることができる。ジョージアを買おうと思っていた気持ちを、明日、ファイアに変えることができる。その意味では、当然未来は変えられるし、自由だ。

さて、過去は変えられないというときと、未来は変えられる(あるいは自由だ)というとき、そこにはどの程度の違いがあるのだろう。過去も変えられる部分があるし、未来も変えられない部分がある。こと事実という問題が焦点なのだとしても、未来も変えられない事実があるだろうと考えると、過去が変えられないということをことさら強調する理由もない。

世の中は、変えられることと変えられないことがある、そのぐらいの話なのではないだろうか。この認識は、常識であろうと思われるとともに、実に空間的な認識である。一方で、過去や未来は時間的な認識に関わる。どうも、時間的な認識は空間的な認識とは異なり、おかしなバイアスがかかっているように感じる。時間には方向性があるということと無関係ではあるまい。それから、僕たちの認識や存在とも無関係ではあるまい。

記憶の力―過去の記憶が未来を変える記憶を書きかえる―多重人格と心のメカニズム真理という謎