ラベル

2012年12月29日土曜日

ipad mini

iBUFFALO iPad mini 【画像、鮮やか】 気泡ができにくい光沢フィルム BSIPD712FG

先日、このところ悩んでいたipad miniを買ってみた。遅いといわれそうだが、一番安い3万円を切るモデルである。使ってみた感じとしては、とにかく軽くて持ち運びに便利である。

andoroidがどうなのかわからないが、比較の対象として、元々使っていたipad2がある。先の軽いという感覚は、なによりもipad2と比べたものだ。一度ipad miniを持った後で、ipad2を持つと、こんなに分厚く、こんなに重たいのかと思ってしまう。最初にipad2を買ったときに、こんなに薄く、また軽くなるのかと思っていたのだが、人の感覚は本当に相対的で怪しい。当時の比較は、初代ipadやノートパソコンだったということだろうか。

引き続きipad2との比較でいうと、画面がやはり小さい。情報量自体は変わらず1024×768ということだから、一つ一つの表示サイズが小さくなっているということだろう。引き延ばして表示すれば良いだけだが、ボタンサイズなどは固定されているから大きくならない。ipad2に慣れていると、ちょっとボタンが押しにくいとも感じる。

このボタンの押しにくさは、もう少しいうと、おそらくipad miniのスペックの低さに関係していると思う。こちらもipad2と比べたとき、ipad miniの反応は2テンポほど遅いという印象がある。pdfで次のページを開いたり、拡大するとき、2テンポぐらい荒い表示のままにとどまっている。

まあ実際に使う分には問題はない。とにかく持ち運ぶという点ではipad2では重すぎるから、ipad miniに相当な利がある。電車の移動時間には申し分ない。ただ、スペックという点で見ると、たぶん、そのうち出るだろうipad mini2?に期待した方がいいのかもしれない。考えてみれば、ipadもipad2がひとまずの完成形だったともいえる。

iPad2 bluetoothキーボード内蔵アルミケース 【USキーボード】 ホワイト 日本語操作説明書付き i-Beans iPad 2 / 新しいiPad 用PUレザーケース ピンクドット柄 スタンド仕様+横開きタイプ アイパッド2用スタンドケースカバー PU Leather Case for iPad2 / The New iPad 液晶保護フィルム付 【全15色】 (1908-8)

2012年12月25日火曜日

直感力

直感力 (PHP新書)
羽生善治『直感力 (PHP新書)』、2012

将棋は遊びとして知っている程度だから、その道のプロがどういうレベルに到達しているのかはわからない。とはいえ、羽生さんの本は、以前にも何冊か読んだことがあるし、テレビの特集もいくつかみたことがある。たしかに、天才的な一手がどのように生まれているのかを知ることができれば、我々凡人にも大変有用であろうと思う。

そういうわけで将棋の細かい話はよくわからないのだが、一番印象深かったのは、冒頭に書かれていた「私はずいぶんと見切りが甘いらしい」という話だった。見切るということが将棋では重要になる。しかし、羽生氏自身は、この見切りが意外にも甘い、と自身で言っている。

しかし同時に、この見切りの甘さこそが、自身の強さであったかもしれないという。すなわち、多くの人が見切ってしまう手を採用してしまうということ、そして採用してしまったが上に待ち構えている困難の中で、それでもなんとか次の一手を見出そうと努力すること、これこそが、重要だったのではないかというわけである。

偉そうなことはいえないが、何となくわかる気がする。将棋に限らず、意思決定の多くは見切る作業を伴う。見切りの甘さはもちろん命取りでもあるが、なんというか、誰も見いだせなかった何かに到達は、その甘さの向こう側にある。

解釈の仕方はいくつかあるだろう。実際にやってみることで未来が見えてくるとか、あるいは、困難こそが未来を切り開くとか。そういうものかもしれないし、もう少し、ここには含蓄があるのかもしれない。もう少し知りたいと思う。

決断力 (角川oneテーマ21) 直観力―私が囲碁から学んだ生きるということ スパークする思考 右脳発想の独創力 (角川oneテーマ21)

2012年12月23日日曜日

「お金の流れ」はこう変わった

「お金の流れ」はこう変わった! 松本大のお金の新法則
松本大『「お金の流れ」はこう変わった! 松本大のお金の新法則』ダイヤモンド社、2012

  投資説明会などに出席すると、こうした話を聞くことになるのであろうか。著者は、ネット証券であるマネックス証券の社長である。

 内容は、次の通り。
1章 今、世界の経済はどうなっているのか。
2章 みんなで動けば、株価は上がる!
3章 マーケットとのかかわり方 
4章 トレーディングの死線は「情報」にあり
5章 タフな市場で生き残るために必要なもの

 ざっと読めて、しかも面白く役に立った。まず、1章と2章の内容がこの本の中心で、そのままタイトルになっている。3章から5章までは、株式市場への招待と関わり方、そこでの心構え等である。言わば、1章と2章が理論編、3章以下が実践編か。

 まず、世界で起きている重要トレンドとして、欧米諸国に偏っていた富が逆流し始めたこと、今後は「情報×人口」という掛け算で経済が伸びていくことが指摘されている。このことに関連して、「歴史的なGDP分布推計値」という珍しい資料が示されて(丸紅経済研究所の資料らしい)、大変面白い。資料によれば、16世紀から19世紀前半までは中国・インドが世界のGDPの3分の2程度を占めている。ところが19世紀後半には産業革命を経て、アメリカ、イギリス、ドイツなどの伸びが目立つ。そして、1973年には、中国とインドを合わせても11%しかない。一方アメリカは31%、ソ連14%、日本11%、ドイツ9%などとなる。これが、今後逆転して、これから再び中国・インドなど人口が多い国が経済発展する、というのである。いわば、「人口ベース経済への回帰」だ。その背景には、情報技術の発達により、情報と技術がオープンに提供されたことが大きいという。

 又、お金やものの値段についての説明も興味深かった。著者は、ものの値段はその本源的価値とは無関係である、と言う。世界には1京円(10000兆円)のお金があるらしい。それらは、「比較的いい場所」を求めて動き続けるようだ。お金が向かうところの値段は上がり、お金が抜けていくところの値段は下がる。つまり、値段というのはそのものの本源的価値とは無関係で、その器に水がどれだけ流れ込んだか、という一時的な現象を表しているに過ぎないのだと言う。しかも、1京円(10000兆円)のうち、アメリカに4500兆円、日本に1500兆円もあるのだそうだ。これらは、いずれも日本の個人の常識とかなり異なるのではないか。

 著者は本文の冒頭で、自分は経済学者ではないし、経済学を勉強したことがない、と書いている。しかし、資本市場に長年身を投じてきた金融マンとして、お金や投資のことを考えていきたい、と言う。ところで現在、経済学者や専門家と言われる人たちの話が、両極に分かれているように見える。いわゆるアベノミクスを巡って、円安株高が、今後の展望であるか、それが単なる麻薬に過ぎないのか、議論は分かれている。日本の20年来のデフレの評価も、決して一様ではない。デフレの原因も、専門家の間で主張は分かれる。

 「あきらめずやり続ける。やりながら軌道修正をしていく」という方針で進んだら、と著者は最後の方で提案している。私は、著者の言う通り、柔軟な試行錯誤がいいと思う。


私の仕事術 (講談社+α文庫) 預けたお金が問題だった。-マネックス松本大が変えたかったこと こうすれば日本はよくなる!

2012年12月20日木曜日

静かなる大恐慌

静かなる大恐慌 (集英社新書)
柴山桂太『静かなる大恐慌 (集英社新書)』、2012

先日Twitterで紹介いただいた一冊。
グローバリゼーションが必然ではないことを歴史的に指摘しつつ、遠からず予想される脱グローバリゼーションへの対応を説いている。確かに、グローバリゼーションは必然でもなければ、必須というわけでもない。その背後には、例えば、アメリカナイゼーションやら、マクドナルド化やら、対抗すべき問題はいろいろある。企業にしても、グローバル化しなければならない、というとき、そこにどういう必然性があるのかは一考に値するはずである。

教えてもらいどんなものかと思っていたのは、ロドリックが指摘するという、グローバル化、国家主権、民主政治のトリレンマであった。これらの3つは、2つまでしか選択できないという。グローバル化は、格差の問題を孕むため、国家主権か世界連邦(これは民主政治らしい)による管理を必要とする。グローバル化をやめれば、国家主権のもとで民主政治も実現できる。

著者によれば、現実問題としてグローバル化をやめることは難しいが、三つ目のグローバル化への抑制なり対応が有用である。さもなくば、遠からず脱グローバリゼーションが強まり、ブロック経済やら戦争やらといった昔と同じ問題が発生しかねない。カール・ポランニーの大転換が温故知新となる(いつのまにか新訳が)。

基本的にその通りだと思うが、難しいのは、例えば昨今のTPPを考えた場合である。正直、それがすでに脱グローバリゼーションとしての危険な運動になっているのか、それとも、その一歩手前のソフトランディングを狙う選択肢なのかはわからないような気もする。

それからあと一つ思い出したのは、去年あたりに読んだ池上x岩井のユーロ問題だった。旧来、国別に通貨があった頃は、景気が悪くなれば個別に紙幣を大量発行し、本書でも述べられているように自国安を作り出して輸出で稼いで利益を取り戻すことができた。しかし、ユーロの統一はこうした国家別の通貨戦略を無効にし、むしろ、自国の産業を淘汰してしまう力として作用した。この辺りの話とも、整合的なのかなと感じる。


2012年 池上彰×岩井克人 新春対談 お金の正体


国としては厄介な話だが、問題の焦点ははっきりしている。グローバリゼーションと、国内の格差のリスクをうまく調整するのである。ベストな解はタイミングによって変わりそうだが、どちらにせよ、グローバル化一辺倒ではうまくいかないということはいえる(同様に、保護政策一辺倒でもうまくいかないだろうが)。

p.s.
改めてトリレンマを考えてみたのだが、民主政治の位置づけが今ひとつよくわからない。本書でも、「議会制民主主義」のことと言い換えられている。このあたりは原書を見た方がいいのかもしれないが、邦訳を待っても良いだろうか。

現代社会論のキーワード―冷戦後世界を読み解く 成長なき時代の「国家」を構想する ―経済政策のオルタナティヴ・ヴィジョン― [新訳]大転換

2012年12月14日金曜日

新しい市場の作り方

新しい市場の作り方―明日のための「余談の多い」経営学
三宅秀道『新しい市場の作り方―明日のための「余談の多い」経営学』東洋経済新報社、2012

とても読みやすく、納得的な内容だった。東大ものづくり系からこの手の本が出るというのも興味深い。第4章のタイトルは「独自技術なんていらない」であるし、後段の信長が「茶器」の価値を創出したというくだりなどは、まさにニヤリとしてしまう(歴史好きだからではなく、ものづくりという話が、もともと性格的にあっていないからだが)。

個人的には、第3章の「「問題」そのものを開発する」というアイデア、およびそれに付随して「正しさを探しに行くな」という話が特に興味深かった。良い一節だと思ったので、たまには引用しておこうかと思う。

「私たちは問題そのものは発見の対象で、それを解決する手段こそが発明の対象と思ってしまっていることがままあります。しかし、それは錯覚なのです。実は、それを問題と思う意識自体が人間による発明なのです(87頁)。」

発見と発明の違いがよくわからない感もあるが、大事なのはそれを問題だと思う意識だということであろう。だからこそ、問題にせよ答えにせよ、外部に探しに行っても仕方がない。それは、それが問題だと感じた時点で、自分の中で最初から生まれているとしかいいようがない。

実際読んでいけばわかるが、おそらくものづくりそのものが否定されているわけではない。ものの価値こそが第一だと思う思考が否定されているのである。むしろ、ものであろうと何であろうと、「つく上げよう」という過程そのものは重要な点として残されている。


日本のもの造り哲学恋愛と贅沢と資本主義 (講談社学術文庫)戦争と資本主義 (講談社学術文庫)

2012年12月5日水曜日

経済大国インドネシア

経済大国インドネシア - 21世紀の成長条件 (中公新書)
佐藤百合『経済大国インドネシア - 21世紀の成長条件 (中公新書)』、2011

 個人的な思い出だが、2005年8月に、インドネシアを訪れた。特にバリ島は美しい島で、踊りや彫刻、ヒンズー教寺院など見るべきものが多く、いい旅が出来たと思う。ところが、その直後10月にバリ島でイスラム教徒によるテロ事件が発生、美味しい食事を楽しんだジンバランビーチでも自爆テロがあり、日本人も被害者となった。それ以来、私は、インドネシアは治安に問題があるという印象を抱いてきた。

 今回、この本を読んで、そのイメージはかなり変わった。政治を中心に、ここ数年の変化はきわめて大きいらしい。又、本来のインドネシアが、とても可能性にあふれた国であることも、改めて知った。こうなると、もう一度是非、訪問したいものだ、という感想を今は抱いている。

 さて、政治については、1997年のアジア通貨危機が大きな転機だったようだ。通貨危機の翌年、30年以上に渡り独裁政治を行ってきたスハルトが退陣。「この瞬間、インドネシアはハードランディングした。堰を切った本流のごとく、スハルト体制とは対極の方向に向かって全速力で走り出した」と、この本には書かれている。スハルト体制とは、「開発」という大義名分のもとに国民の自由を制限する権威主義体制だった。新体制では、一転して、自由化と民主化の方向にと改革が進められた。

 しかし、改革は次々と新たな混乱を生み出す。結局、その後の6年半をかけて、政治上の試行錯誤が繰り返されたようだ。その間、憲法改正が4年半で4回も行われ、大統領も3人入れ替わった。インドネシアの混乱が、一つの制度的均衡点に到達したのは、2004年であったという。初めての大統領直接選挙が平和裡に実施され、現在のユドヨノ大統領が選出された。現時点では、ユドヨノは再選されて安定した二期目の政権となっている。この経緯を踏まえつつ、「堅固な権威主義体制から安定した民主義体制への大転換を、6年半で成し遂げたインドネシアは、今後長く世界で参照される例になることだろう」と著者は高く評価している。実際、ユドヨノ大統領の下で、独立を目指す紛争が絶えなかったアチェ問題を平和裡に解決したし、イスラム過激派のテロも抑止の手立てが進んでいるようだ。三権分立が確立し、地方自治制度も整備され、汚職の摘発なども進んでいるそうだ。

 そもそも、インドネシアは実に興味深い国である。人口2億3千万人を越える世界第4位の人口大国。そのうちの2億1千万人がイスラム教徒であり、世界最大のイスラム教徒の国でもある。ただし、建国の時点からイスラム教は国教ではない。そして、国家標語がサンスクリット語で「多様性の中の統一」を意味する語が掲げられているらしい。歴史的にも、中国とインドの間にあって双方の影響を受け、まさに交通の要衝に位置していたのだ。国章が、ヒンドウー教のヴィシュヌ神を乗せて飛ぶ、神の鳥ガルーダであるというのも面白い。

 この本ではその他に、インドネシアの恵まれた資源や政治・経済指導者の成長、今後20年にわたる人口ボーナスなど、多くの発展の要因を並べている。なるほど、政治的安定を背景に、今後めざましく経済発展する可能性があるとする結論は、多いに説得力がある。一方で、民主主義や産業化など近代化が遙か前に進んだ日本は、今後、どのような発展可能性があるのか、改めて考えてしまった。

インドネシア―多民族国家という宿命 (中公新書) 消費するアジア - 新興国市場の可能性と不安 (中公新書) アジアの政治経済・入門 新版 (有斐閣ブックス)

2012年11月30日金曜日

はじめての哲学史

はじめての哲学史―強く深く考えるために (有斐閣アルマ)
竹田青嗣・西研編著『はじめての哲学史―強く深く考えるために (有斐閣アルマ)』、1998

このところ、個人的に探している用語があった。「本質直観」と「現象学的還元」である。おもいがけず、その2つをきれいに発見した。15年ぐらいまえに『現象学入門』で読んだことを懐かしく思い出した。

はじめての哲学史ではあるが、いつ読んでも構わない。いつ読んでも、新しい発見がある。そういう意味では、哲学史というのもの自体が、「はじめての」とか、あるいは初学者のということではなくて、いつだって、意味を持つということなのだろうと思う。哲学というのは、多分そういうものだろう。

個人的にも思ったし、アマゾンの書評にも似たようなことが書いてあってそうそうと思ったのだが、僕にとってこの本は竹田青嗣=現象学を強く感じた。ただそれは偏っているというよりも、哲学史はひとつにそう読むことができるのだろうし、とても納得的であった(最初にそう読んでしまったのならば、よくもわるくも、そこから自由ではもうあり得ないとはいえるが。)

冒頭で述べられている言葉が印象的である。哲学は、直観補強型ではなく、直観検証型である。哲学だけではないと思う。直観補強型は、世界の外に目が向き、本当はありもしない虚構を集めてまわって一般性を獲得しようとする。どんなに集めようと、それはゼロだ。失敗するに決まっている。そうではない。気づいてしまったということ、感じてしまったということ、その理由をこそ探るべきだろう。それによって確からしさも生まれるし、「僕」も生まれる。

現象学入門 (NHKブックス)ニーチェ入門 (ちくま新書) 陽水の快楽―井上陽水論 (ちくま文庫)

2012年11月25日日曜日

第一旭と新福菜店

もう15年近くなるが、学生の頃以来、京都のラーメンといえばこの二つだ。京都駅に近いということもあり、今でも、京都による機会があればちょっと食べていこうかなという気になる。

第一旭はチャーシュー、それから新福菜店は黒いスープが印象的だ。どちらも混んでいることが多いけれど、行くタイミングで混み具合は違う。特段こだわりはないから、混んでいない方に入るようにしている。限られた経験からいうと、新福菜店の方が回転が速いように思う。

京都駅は、今では伊勢丹の中に拉麺小路ができた。有名なラーメン屋も入っていて、これはこれでおいしい。もっといえば、この10年で総じてラーメン屋の質は上がっている。こだわって作られているラーメンということであれば、東京であればもっといろいろある。第一旭も新福菜店も、おいしいが昔ながらという感がある。

僕自身にとっては、もはやそれは懐かしさと重なっているから、味の問題ではない。2つの店が並んでいて、どちらに入るか迷い、空いていると思った方に入る。学生の頃も思い出せるし、その後のことも思い出せる。京都らしい、という感もある。

あと、この2つの店は接客が今も昔も素晴らしいと思う。特に新福菜店は印象的だった。学生の頃の思い出でいえば、客のことをいつも「大将!」と呼んでくれていた。二十歳になるかならないかの僕に対して、「大将!今日は何にしましょ。」と聞いてもらえる。ちょっと恥ずかしくもあるがうれしくもあった。もちろん、それでラーメンを頼むわけだが(笑

最近は、そうは呼んでもらえなくなった気がする。けれども、先日行ったときには「兄さん!今日は何にしましょ。」と言ってもらえた。30すぎてもそういってもらえるのは、やっぱりうれしい。この接客はやめないで続けて欲しいと思っている。そうである限り、僕はここにまた来ることになるだろう。

2012年11月14日水曜日

性愛空間の文化史

性愛空間の文化史
金益見『性愛空間の文化史』ミネルヴァ書房、2012

いわゆる「ラブホテル」についての歴史研究である。連れ込み茶屋や宿、それからモーテルの時代を経て、1973年の「目黒エンペラー」なるラブホテルの登場を前後して、この用語が一般に定着していったとある。

ある用語が一般に定着するとともに、その意味が時間の中で変容していくことを捉えることは、文化史として重要なことであろう。僕たちが日常的に用いている何気ない単語の存在が、時には、僕たちの社会や文化の深層をえぐる手がかりになることもある。

ラブホテルという用語への注目はそれ故に興味深いが、今回の本の中でどこまで僕たちに驚きを与えてくれてるいるかは定かではない。本書は、正直に言うと資料集に近い印象を受ける。後は読み手に任せたということなのかもしれないが、そういう本は可能だろうか。もちろん、歴史研究として史料を残すことは一つの価値があるが、その解釈やつなぎに期待しては駄目だろうか。

直感的に言えば、ラブホテルは、ハレとケの間であったり、表社会と裏社会の間に位置するように思われる。それほどラブホテルという用語に注目するということ自体が、すでに魅力的なアイデアだったはずだ。その期待の高さゆえにということもあろう、この本では社会の深層に踏み込めたという印象を持つことができない。

後いいわすれたが、最後についているラブホテルの年表は詳細で興味深い。まさに歴史的資料としての価値があると思う。次の研究は、ここから始めることができる。

ラブホテル進化論 (文春新書) 美人論 (朝日文芸文庫) つくられた桂離宮神話 (講談社学術文庫)

2012年11月13日火曜日

「関係の空気」「場の空気」

「関係の空気」 「場の空気」 (講談社現代新書)
冷泉彰彦『「関係の空気」 「場の空気」 (講談社現代新書)』、2006。 

 「空気」については、KY(=空気を読めない人=場の雰囲気・状況を察することが出来ない人)という語が流行した。多分、私たち日本人は、意識するとしないとに関わらず、「空気」を日常生活でいつも気にしている。ただ、「空気」そのものが何なのかは、その特性からあまり問題とはされない。

 この本は、日本における「空気」の先行研究を踏まえ、そこに日本語の問題という観点を加えて現代の日本社会を考察している。更に、最終章では「空気」への対処法として、日本語の使い方という点から、いくつもの具体的提案をしていて面白い。

 先行研究とは、山本七平「空気の研究」(1977文藝春秋=1983文春文庫)である。山本の研究が、第三章「場の空気~「『空気の研究』から三十年」において、かなり丁寧に紹介されている。そこでは「空気の研究」が、「日本社会を理解する上で、今でも必読図書のナンバーワン」と高く評価されている。そして、「山本亡き後も猛威を振るう空気」として、日本社会における「空気」の跋扈が、バブルの膨張と崩壊、郵政民営化、ライブドアなどを例として、説明されている。

 著者は、アメリカで大学生に日本語を教えているようだ。そこで、日本語の特性として、短縮表現が会話の中で効果を上げることに気付く。大幅な省略があるのに、互いに会話が成立するのは、そこに「空気」があるから、ということに着眼する。著者は、一対一の関係における会話における「空気」を「関係の空気」と呼び、三人以上の場における「空気」を「場の空気」と呼んで、区別することを提案している。そして、この二種類の「空気」について、「非常におおざっぱではあるが、『場の空気』には問題があり、『関係の空気』はむしろ必要なもの、という仮説をもちながら論を進めてみたい」と言う。この場合、山本が問題とした「空気」は、「場の空気」に当たるだろう

 「空気」を二つに分類したことで、「関係の空気」の効用が浮かび上がってくる。更に、それが今日希薄化している、という指摘が続く。私たちは、「関係の空気」の中で、それを前提に会話していたのに、それが希薄化すると同じ事を言っても相手に通じない、ということが起こる。自殺者の急増、学校でのいじめなど、空気不足による会話の不全の例が語られると、なるほどなと思う。

 一方で、「場の空気」の方は、相変わらず跋扈している。「関係の空気」には会話する二人に対等性がみられるが、「場の空気」には、権力が特徴だ。その際、公的空間に私的な空気が持ちこまれる時に権力が生まれる、という指摘は斬新だと思う。元首相の演説やテレビタレントの語り口などを取り上げての説明は、説得力があると感じた。

 こうした指摘を基にして、最終章では「日本語をどう使うか」と題して、五つの提案をしている。いずれも重要だが、中でも、教育現場では「です」「ます」のコミュニケーションを教えよ、という主張には全面的に賛成だ。

 「空気」は、まずは論理の対象でないからこそ「空気」と呼ばれる。だからこそ、この本のように、「空気」を対象化して論理で説明すると同時に、具体的な対応を考え、更に意識的に実践するということがとても重要だと思う。そうした努力を通じて、「空気」に振り回されず、「空気」とうまく付き合うことが、少しずつ可能になるのだろう。

「空気」の研究 (山本七平ライブラリー) 「上から目線」の時代 (講談社現代新書) 二人称の死―西田・大拙・西谷の思想をめぐって

道徳の系譜

「私に与えてくれたまえ、私がお願いしたいのは--何なのか?何なのか?それを言いたまえ!--もう一つの仮面を!第二の仮面を!」

 Nietzsche, F.(1887), ZUR GENEALOGIE DER MORAL,邦訳295頁。(木場深定訳『道徳の系譜』岩波文庫、1964)

どこかで記録していたのだが、何処に残っているのかわからなくなっていた言葉を見つけた。『この人を見よ』の一部だとばかり思い込んでいたが、『道徳の系譜』だったか。どうりでみつからなかったはずだ。これで合っているかどうか改めて確認し直そうと思うが、ひとまずなくしてしまう前にこちらに。

しかし今この文だけみるとよくわからなくなるのだが、「私」とは誰だったのだろうか。それこそが、仮面ではないだろうか。Es denktだったはずだから。もし、私がいたとすれば、それは「私」の方ではなくて、「お願いしたい」の方だったことになるだろう。

 道徳の系譜 (岩波文庫) 善悪の彼岸 (岩波文庫) この人を見よ (岩波文庫)

2012年11月5日月曜日

ワンクリック―ジェフ・ベゾス率いるAmazonの隆盛

ワンクリック―ジェフ・ベゾス率いるAmazonの隆盛
リチャード・ブランド『ワンクリック―ジェフ・ベゾス率いるAmazonの隆盛』日経BP社、2011→2012

 今も成長を続けるアマゾンについて、特に社長であるジェフ・ベゾフに焦点を当てて考察した一冊である。2011年発行、さらにはタイトルも印象的で読んでみたのだが、大半は2000年頃までの話に終始している。この手の話はすでに日本人の手によるものまでずいぶんと出ていたのではないだろうか。細かい議論では発見もあるのだが、全体的には古さを感じる。 

最後の方でようやくKindleが登場し、最近の話になる。アマゾンvs出版社といったテーマはとても興味を引くのだが、こちらもそれほど新しい情報はなかったように思う。これは著者の問題というよりも、ずいぶんと隠されたトップシークレットなのだろう。今後の展開をみるしかないのかもしれない。

タイトルがせっかくクリックなのだから、この辺りはもう少し結びつけられたのではないだろうか。Kindle話も、しかしすぐに終わり、またベゾフ論になる。こちらもずいぶんといわれてきた話のような気がする。

 アマゾンに興味を持ち、ジェフ・ベゾフについて知りたいと思った人が、はじめて読むというのならばこれでいいかもしれない。しかし、日常レベルでさえ、アマゾンに触れるようになっている我々にとっては、もう一歩踏み込んでもらえなかったのだろうかという気もする。 

個人的に知りたいデータは一つあって、なるほどと思ったのは、アマゾンのマーケットプレイスのくだりだった。やはり収益として大きくなってきているようで、フォレスターリサーチによるデータで、2010年最終四半期で全体の約35%だという。

あと、改めてこの本を読んで思ったのは、アマゾンが利益が出なかった当時、規模をできるだけ大きくしようとしていたということだった。ビジネスとしてどちらが正しいのか、よくわからないが、最初にシェアをとって後続を抑えるというのは一つの方法なのだろう。あるいは、一歩抜きんでれば、後は倍々ゲームで差が広がるだけということなのかもしれない。

 アマゾン・コムの野望 ─ジェフ・ベゾスの経営哲学 アマゾン・ドット・コム アマゾンの秘密──世界最大のネット書店はいかに日本で成功したか

2012年10月31日水曜日

夢の原子力

夢の原子力: Atoms for Dream (ちくま新書)
吉見俊哉『夢の原子力: Atoms for Dream (ちくま新書)』、2012

 タイトルの通り、原子力についての書籍である。ただ、3.11を契機にして書かれたものではあるが、これからの原子力の在り方や、原発/反原発を問うているわけではない。むしろ本書が問うているのは、これまでわれわれが接してきた原子力なるものが、いかなるものであり、またいかなる形で日本で受け入れられてきたのか、その歴史的経緯である。

原爆をきっかけにして始まる日本の原子力の経験は、その後冷戦化のアイゼンハワーによる「アトムズ・フォー・ピース」の文脈の中で錯綜し、原爆と原子力(発電)、悪と善という図式で内面化されていくことになる。このさい、原子力は世界的にみて電力と結びつくことになるのだが、この結びつきこそ、その後の原子力の在り方を規定していくことになった。重要なのは原子力ではなく、それが他ならぬ電力として、われわれの社会に埋め込まれていったという点にある。

前半で述べられるように、原子力は何も電力でなければならないわけではない。むしろ、原子力発電は基本的に熱としてタービンを回すだけであるのだから、電力との結びつきは相当に弱い。医療であろうと何であろうと、もっとほかの選択肢もまたありえたであろうし、そうした道がもし選択できていたのならば、もっと別の可能性が見いだせたのかもしれない。

後半では、博覧会を挟みつつ、どちらかというと50年代以降の映画やアニメの分析を通じて、日本がどのように原子力を理解し、捉えていったのかが語られる。その考察はゴジラに始まり、鉄腕アトム、さらにはAKIRAや20世紀少年へと進んでいく。原子力の脅威が唐突にもたらされるというゴジラに代表されるストーリー展開は、その担い手としての主体を不可視なものにしつつ、最終的にはAKIRAのように特異な少年の超能力的な覚醒という内側からの破壊として捉えられるようになる。そこでは、ようするにアメリカの不在が語られるというわけである。同時に、こうした世界観は、20世紀少年が語る大阪万博のオルタナティブとしてある。

状況はよく分かる。それに加えて、僕がふと思ったのは、1997年のファイナルファンタジー7の魔晄炉は、原発を指していたのか、ということだった。漠然とだが、ずっとあれは石油を吸い出す機械で、それゆえに地球が滅びるのだと思っていた。しかし、石油を吸い出したぐらいで地球は滅びないだろう。滅ぼしかねないのは原子力のほうだ。後半ではジュノンで魔晄キャノンとして武器にもなる。あれこそ原子力のもう1つの側面だ。魔晄の結晶ともいえるマテリアは、ウランとも言えそうだ。しかも、魔晄を浴びるとソルジャーどころかモンスターになるのだった。あれはゴジラだったか。

ネットでみても、そんな記述もある。ただ、つきつめていけば、やっぱり魔晄炉が原発かどうかははっきりしない気もしてきた。なにより、魔晄そのものの破壊性はあまり感じられない。石油+原子力といった感じがする。その曖昧さが一つの特徴なのかもしれない。時代的にも20世紀少年が1999年らしいから、その直前の曖昧な状況を提示していたのだろうか。

いずれにせよ、僕たちの意識の中に、原子力は深く埋め込まれていることはわかる。その意識を洗い出す作業をしていくことは、これから原発をどうしていくのかを考える際にも、必要になりそうな気がする。もちろん、それが経済的にどういう意味があるのかといった現在の社会的文脈(というか、それも政治的というべきだろうか)も重要だろうけれど。

万博と戦後日本 (講談社学術文庫) 親米と反米―戦後日本の政治的無意識 (岩波新書) 岩波映画の1億フレーム (記録映画アーカイブ)

2012年10月28日日曜日

レッツノートAX

ここのところ気になっていた機種がヨドバシにおいてあって、あぁ、なるほどと思った。
コンパチブルでタブレットにもなるレッツノート最新作である。


パナソニック レッツノートAX


windows8のノートパソコン戦略はある程度はっきりしているようで、
タッチパネル+キーボードなのだろう。
昔タブレットはキーボードを持つタイプと持たないピュアタブレットの2つがあり、
現状はピュアタブレットが市場を制した。
これを改めて取り戻そうとしているように見える。

mac book airはタッチパネルを搭載していない。
ipadとのカニバリの問題もあるが、
そもそも、キーボードを使う状況ではタッチパネルはいらないし、
マウスの方が疲れも少ないと考えられていた、と聞いた記憶がある。
そのときはなるほどそうかなと思ったが、
その妥当性はこれからwindows8が明らかにしてくれそうだ。

にしても、レッツノートAXである。
触った感じ、反応はとてもいい。バッテリーが外されていて、実際にはもう少し重いのだろうけれど、それでも、1.14kgということだから相当軽い(ノートパソコンとしてみる限り)。
windows8についても、細かいところはこれからだとしても、OSとしてはそんなに問題があるようには見えない。

少し触手が動いたが、致命的な問題があると思う。
コンパチブルでタブレットになる際、キーボードがタブレットの背面になるのである。
この点はおそらくパナソニックも意識していて、
ホームページ上ではよく分らない形になっている。
僕自身、最初の発表をみたときには、
液晶がくるっと回った上で、キーボードに重ね合わされてタブレットになるのだと思っていた。

タブレットの裏型は、当然向こう側の人に見える。
タブレットとして手に持っている時、キーボードが向こうの人には見えてしまうわけだ。
それがどうした、と思う人もいるだろう。機能こそが大事で、見た目のデザインなんて何を言っているのだというわけだ。
多分、パナソニックでもそういう議論になったのだろうと推測される。

否定はしない。技術派らしいと思うし、そういうところが好きだったりする。
けれども、僕はそれは使いにくい。
剛性の問題があったのだろうと推察するが、
タブレットになるときは、くるっと反転してキーボードを隠してほしい。

このタイプのコンパチブルはしばらくいろいろ出てきそうだ。
いいものが出てくれば、いつでも乗り換える。
ただ今のところ、macの完成度が高すぎるように感じる。

追記:2012年10月29日
価格.comでコンパチブルの紹介がされていた。
これをみると、キーボードがむき出しになるタイプは、むしろ主流なのかもしれない。
デザインより機能でしょ、ということなのかもしれないが、
さて、どうなのだろう。


ノートPCとタブレット、1台で2度おいしいコンバーチブルPCに注目


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2012年10月26日金曜日

教育と選抜の社会史

教育と選抜の社会史 (ちくま学芸文庫)
 天野郁夫『教育と選抜の社会史 (ちくま学芸文庫)』1982=2006

 学校は、個人にとっては知識・技能を習得し、自分の可能性を広げてくれる存在である。ところが、それは一方で人を試験によってランク付け、選別する存在でもある。前者にだけ目を向ければ、個人に希望をもたらす素晴らしいものだが、後者に注目すると、冷たくて意地が悪いものとなる。

 こうした学校の二面性は、実は近代の産業社会の要請に応えたものだ、という理解がこの本の核心にある。産業社会においては、個々人の資質や能力は生まれや身分と関係なく、広く人々の間に平等に分布している、と考えられる。

 そこで、社会的な地位や役割が、資質や能力に応じて適切に配分されるためには、まずは人々により高い地位や役割の獲得をめざして競争に参加してもらわなくてはならない。その参加動機として、高い所得やより大きな権力・威信への期待がある。ところが、用意された地位や役割は当然限定されている。

 「より多くの人々を競争に参加させるよう加熱する一方で、その人々を用意された地位や役割に合わせて、しかもそのことに恨みの感情を残さぬよう適切な水準まで減らしていかなければならない。」「産業社会の選抜と配分の機構は、この冷却と過熱の相反する過程の微妙なバランスの上に立っている。」と著者は書いている。まさに、学校の二面性の役割そのものである。

 この本は、教育と選抜の関わりが、産業社会の成立を背景にどのように発展したかを、主に日本を取り上げて歴史社会学的に辿っている。その際、近代化のお手本となるヨーロッパ諸国がまず取り上げられ、その比較から明治以降の日本の教育制度の特色が析出される。そもそも学校は、本来的に選抜のために作られたわけではない。例えば、江戸時代の寺子屋や藩校は、競争とは無縁であった。国家による公教育の思想は、近代ヨーロッパでしか生まれなかった。国家が学校を設置し、全ての人に教育機会を与え、又多様な学校をシステムに体系化する。そしてそれこそが、まさに冷却と過熱の仕組みを作り出す、重要な社会的装置となったのである。

 この本が書かれて、もう30年が経っている。30年も経つと、大抵の本は読む人もなくなり忘れられる。しかし、この本は現在でも十分に生きているようだ。文庫版の巻末では、、著者の二人の弟子(広田照幸、苅谷剛彦)がその意義を解説している。社会学プロパーにとって、この本は今や古典であるらしい。そして、実は一般人読者にとっても、大変面白い本だと私は思う。最初の出版は、教育学全集の一部であり、一般人には目に触れにくかった。こうして文庫版が現れたのは、有り難い事である。

 この本を読むと、明治以降のここ数世代の日本人が、どれだけ教育制度の中で加熱や冷却されたかをつい想像してしまう。そのお陰で、今や高等教育の進学率も、行き着くところまで行ったようにみえる。現在、教育と選抜の関係は、どうなっているのか。又、今後どう変わっていくのか。

 ヨーロッパのイエズス会のコレージュや、日本の咸宜園・適塾には、社会的選抜とは無関係に厳しい競争があった。リセやギムナジウムにあったバカロレアやアビツーアを、日本の中等教育は取り入れなかった。日本の大学が、既に大正時代という早い時期から、企業の職員を供給する役割を果たした、などなど。この本には面白い話は沢山あって、それらが今後を展望する手がかりになるような気がする。

格差・秩序不安と教育 教育言説の歴史社会学 教育と平等―大衆教育社会はいかに生成したか (中公新書)