ラベル

2015年2月23日月曜日

天地を喰らう2 諸葛孔明伝

どうでもいいことながら、時折思い出す名言だった一つ。誰かと作業をしていてうまくいかないとき、いつも思い出す。

以前書いたと思うけれど、「天地を喰らう」は三国志をもとにしたRPG。ファミコンで発売され、結構人気があったと思う。当然数多くの魅力的な武将が登場するのだが、ひときわ印象深かったのが呂布だった。三国志を知っている人ならば、三国志最強にして裏切りの名手といえば呂布の名が挙がるに違いない。

天地を喰らう2では、史実とは異なり、呂布は赤壁の戦い後も登場する。そして劉備や孔明に協力するように見せかけて、やっぱり、というか当然、裏切るわけである。この展開を誰もが知りながら、それでもこの展開になるという、なんというか吉本喜劇をみるようでもある。

そして関羽に向けて放つこの名言。

「おれは やっぱり じぶんで てんかを とることにしたよ」

それでいい。そして、当然のことながら、彼は歴史から退場していくことになる。


スクリーンショットを探していたのだけれど、なかなか見つからなかった。ようやくとれたので備忘録としてもアップしておこう。

2015年2月9日月曜日

音楽編 夜が明けたら

大学生だった頃好きだった曲の一つに「夜明けまえ」がある。スガシカオの名曲だと思うけれど、夜明け前というある意味始まりを予感させる瞬間と、だからといって何が起きるわけでもない現実がうまく重ね合わせられていた。

「僕らの銃声は ヤミをつらぬいて 夜明けまで 届きそうなのに
風がただ ふきつけるだけ」



曲が一瞬盛り上がってメジャーコード?になるにも関わらず、そのあと失速するような感覚がとても印象深かった。と同時に、何度もリフレインされながら、最後はまあそれでも良いのかもしれないと妙に納得してしまう感覚があり、今聞いても、これはどういうことなのだろうかと自分自身の感覚が気になってしまう。

歌詞の中にある、おもちゃの手錠を外そうとして逆にきつくしまってしまったという一節が示すのだと思うけれど、何かやろうとしてうまくいかなかったり、むしろ悪い方向に動くということはよくある。夜明けをみつけようとして、みつからなかったり、むしろヤミの中なのだから、どこにいるのかわからなくなってしまうこともある。でも、そういうことが現実なのだということかなと思っていた。

そんな中で、たまたま、youtubeできのこ帝国の「夜が明けたら」を聞いた。誰かのコメントで「渦になる」がいいとあったので聞いていた次第だが、一回聞いて、この「夜明けまえ」を思い出したのだった。

きのこ帝国の曲は、正直なところあまり知らない。聞いていると、accidmanを連想させる。(改めて聞いてみると、少し違う気もしてきた)。いずれにせよ女性ボーカルのせいか、もう少し線の細さというか、曲調がポップのような印象を受ける。

「思い出しても仕方のないこと 家に帰ろう夜が明けたら」

 

全体的に憂鬱な感じの曲風だが、それでもスガシカオよりは、夜明けに期待しているように感じる。その期待は、曲の最後にテンポが一気に加速することに象徴されている。結局その先に失速が待っているのかもしれないけれど、それでも、転調する感覚はある。

多分どちらの曲にしても、夜明けだからといって何か革命が起こるわけではない。どちらも、そんなに楽観的ではない。でも、でも、でも、夜が明けたら、何か起きるような気がする。そういう根拠のない高揚感と、そして結局何も変わらないのだけれど、それでも、ほんの少し、例えば気持ちが晴れるとか、もう一回やってみようかなと思うとか、そういう少しの変化が生まれる、そういう小さな変化を、きのこ帝国は肯定しているようにみえる。一方で、スガシカオの方は、変化すらない、繰り返し、それ自体を肯定しようとしているようにみえる。



2015年2月2日月曜日

音楽編 服部

 改めてそう考えると、服部は特異である。ユニコーンや奥田民生の世界は、何処かくたびれたサラリーマンの悲哀を歌っていた。だが、服部は明らかに違う。彼は30代を満喫する憂いのダーティサーティンだとされる。

 しかし、憂いのダーティンサーティンなのだ。そこにいるのは、やっぱり何処かくたびれたサラリーマンなのかもしれない。それは悲哀の対象でもあるが、その悲哀は、人々を引きつける新しい魅力でもある。まっすぐに生きていられた時代が終わり、現実はなかなか厳しいなとようやく気づくようになり、だからといってもう仕事を辞めるわけにもいかず、このままやっていくしかないという現実に直面する。その悲哀はしかし覚悟と裏腹であり、輝く男のようにちょっとずつ生きることもできるし、思い切って服部になることもできる。それは僕たちの選択に委ねられている。  

 あのころ、僕たちは服部に憧れていたのだろうか。あるいは、彼の魅力を知ろうとしていたのだろうか。カラオケでよく歌った記憶はあるが、その内容について深く考えた記憶はない。多分、何も考えずに歌っていた。ただ楽しかったということだろう。けれども、今思い直せば、あの時代はノスタルジアであるとともに、僕たちはまさにその年になっているということだ。  

 そういえば、ひげとボインなんて曲もあった。出世と恋愛の板挟みになるといったようなイメージだが、どちらにも進めない。突き抜けてしまえば、多分どちらもついてくるのだろうと思う。けれども、手前で止まっている限り、どちらにも手が届かない。そんな感じだろうか。

 そんなことを考えていると、やっぱり僕は服部にはなれていない。むしろ、理不尽な社会や会社を歌う大迷惑の方があっている。どうしてといわれても困るのだが、当時は、何となく歌いやすかった。出だしのシュビドゥバーの意味もよく分らないが、サラリーマンが転勤させられて困るというストーリーはよくわかる。歌詞に僕はカンイチ、君がオミヤとか入っていて、何だそれはと思った。当時は東京ラブストーリーにそんな名前の主人公がいたから、その話かなと思っていたが、考えてみればそうではなくて金色夜叉の貫一とお宮なのだろう。


 金色夜叉は今も読んだことはないけれど、ストーリーは何となく知っている。便利な世の中で、ネットでみればあらすじはすぐわかる。これも未完だったらしい。とはいえ、以前紹介した吉川英治の水滸伝が梁山泊完成の最大のポイントで終わっていたのに対し、こちらはどうも悲劇のまっただ中というところで終わっているようだ。比べるのも変な話だが、しかし未完はいろいろとその後の想像を可能にするともいえる。