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2015年12月16日水曜日

僕たちは調べるようになったのか

 帰宅ラッシュも一息ついた9時すぎの電車、仕事が終わりくたくた帰る僕の隣に3人家族が座った。僕の横には高校生ぐらいの女の子、その隣に40代後半ぐらいの母親、一番向こう側に父親。彼らは座席に座ると、それぞれ何かを話すわけでもなく、携帯を取り出してぼんやりと操作し始めた。

  電車が次の停車駅に止まったとき、女の子が少し高い声で母親に話しかけた。「ねえ、駅の名前って誰が決めるんだろうね?だって、麻布十番だよ。」

  ああ、確かに変わった名前だなと思いながら、僕はぼんやりと駅の表札を眺めた。考えたこともなかったな。一方の母親は特に興味もないようで、一言、小さい声で「そうだね」と相づちを打つと、相変わらず携帯を眺めていた。女の子もそのまま、何事もなかったかのように、電車が走り始めると持っていた鞄に突っ伏した。

  二つ先の停車駅で、母親が「ついたわよ」と女の子を起こす。電車が止まると、3人はそのまま降りていった。

  会話の真意を知ることはできない。女の子は何となくそう思っただけかもしれないし、何かもっと、電車に入る前にあった何かの会話の続きだったのかもしれない。それでも、僕がたまたま横で聞いて思ったことは、その携帯で、すぐにでも麻布十番駅の名の由来を調べればいいのにということだった。

  もちろん、女の子が自宅に帰った後、改めて検索をするのかもしれない。けれども経験的に言って、ふと疑問に思ったことは、そのまま忘れてしまうものだと思う。そうやって日々は過ぎていく。

  ネットや携帯の存在は、明らかに僕たちに多くの情報を提供してくれるようになった。グーグル先生に聞けば、なんでもわかるようにもなった。にも拘らず、と言うべきだと思ったのだが、僕たちはこの機能をあまりに使っていないのではないだろうか。使えることは知っている。時に使うことはある。けれども、もっともっと日常的に使えるし、また、使うべきではないのだろうか。疑問に思うことや、知りたいと思うことは山ほどあるのだから。

 まあ、余計なことではある。

2015年12月1日火曜日

國分功一郎『近代政治哲学-自然・主権・行政-』


國分功一郎『近代政治哲学-自然・主権・行政-』ちくま新書、2015。  

 この本では、ボダン、ホッブズ、スピノザ、ロック、ルソー、ヒューム、カントの政治哲学が解説されている。しかし、単なる教科書的な解説ではない。予め政治哲学という分野を前提して、そこに安住するわけにはいかない、と著者は冒頭で述べている。現在の政治体制は、近代政治哲学によって構想された。今日の体制に欠点があるなら、その欠点は体制を支える概念の中にも見いだせる。そこで、近代政治哲学者たちの概念を、改めて検討しようというのである。古典の読み方として、これは大切な視点だと思う。

 一方で、この本の中身は、著者が行った大学での授業が基になっているらしい。その際、受講者は初年次の学生であったとのことで、特に前提知識が要求されていない。そのため、政治哲学の入門書ともなっていて、大変読みやすい。基礎知識を得ながら、同時に現在の政治体制への視点も持てることで、政治哲学の入門書としても、大変役立つだろうと感じた。大学生だけでなく、間もなく有権者となる高校生にも、副読本として適切だ。

 取り上げられている政治哲学の概念は、自然、主権、行政などであり、それがこの本のサブタイトルになっている。そこで、自然概念について、少し取り上げてみよう。社会契約説では、自然状態の想定が話の出発点となる。ホッブズが、自然状態を「万人の万人に対する争い」と考えたことはよく知られている。ホッブズについての教科書的な説明だと、人々は争いが続く自然状態では生きられないから、自然権を放棄して代表者に委ね、国家を作ったとされる。その結果、一旦委ねた自然権を取り戻すことは出来ないから、ホッブズ理論は絶対王制を支持する理論となった、とされる。絶対王制の国王は、まさにホッブズの著書のタイトル通り、リヴァイアサン(神話上の怪物)だというわけだ。

 しかし、著者によれば、ホッブズの言う自然権は、好きなことを好きなようになし得る自由のことであった。自然権とは、「権利」という語感が与える印象とは異なり、自由という事実そのものを指している、というのである。すると、自然権は、物のように棄て去ることは出来ない。ホッブズの言う自然権の放棄lay downとは、実は自制を意味していると著者は考える。法によって禁じられた行為を我々が普通やらないのは、それが罰せられるからだ。しかし、罰せられるとはいえ、やろうと思えば出来るのである。そこから、著者は自然権は放棄できない、と話を進める。我々は、常に自然状態を、生きているからだ。もっとも、ホッブズの「リヴァイアサン」には、そこまでは書いていない。しかし、ホッブズの記述を辿ると、十分、成立する議論だと思う。ホッブズの自然概念は更にスピノザに引き継がれて、人々は自然権を適度に自制しながら社会の中で生きる、とされた。

 主権や行政についても、教科書的な解説から一歩進んだ斬新な視点が、政治哲学者たちの記述から取り出されている。主権について、執行権(行政権)が大きな影響を持つことは、スピノザ、ルソー、カントが特に問題視していた。例えばルソーの一般意志は、まさにその問題に関わる。著者に言わせれば、ルソーが直接民主制を主張したという通説は、見当外れだ。そして、最終的に、民主制という概念も、問題になる。実際、カントによれば、「言葉の本来の意味で民主制と呼ばれる形態は必然的に専制である」。カントの議論を追えば、確かに民主制は専制になる他ないと思われる。その一方、今日の議会制民主主義は、カントの分類では「共和的な貴族制」になる。では今日、我々が自明視している民主主義とは、一体何なのか。近代政治哲学を再検討する意味は、まさにそこにあるのだろう。