ラベル

2012年5月31日木曜日

ごまかし勉強

 
藤澤伸介『ごまかし勉強〈上〉学力低下を助長するシステム』新曜社、2002
藤澤伸介『ごまかし勉強〈下〉ほんものの学力を求めて』新曜社、2002

この本は上下巻からなり、上巻のサブタイトルが「学力低下を助長するシステム」、下巻では「ほんものの学力を求めて」となっている。この本が出た2002年前後には、大学生を始めとする学力低下が大きな話題であった。いわゆる「ゆとり教育」への賛否を軸に多くの議論があったが、この本はそれらとは一線を画した視点を提供している。

著者の藤澤伸介は、教育心理学・認知心理学が専門。まず、認知心理学の知見を背景に、学習の意義、仕組みを説明している。理想的な学習の場合、新たに学んだ知識を、既存の知識に関連させて取り込んで、新たな意味体系を獲得することになる。すると目からウロコの状態でより現実の世界がわかり、学習の手応えを感じることが出来る。そこで更に学習意欲が高まる、という良い循環がはじまるという。逆の悪い循環を、彼は「ごまかし勉強」と名付けて、それが学力低下の大きな原因の一つであると主張している。ごまかし勉強は、近くあるテストで良い点数を取ることだけが目的、そのために、結果主義、暗記主義、物量主義などになりやすい。

この本の内容は、大きく二つに分けられる。一つは、こうしたごまかし勉強が、いつどのように蔓延したのか、という分析。もう一つは、ごまかしでない勉強はどうやればよいか、という処方箋の提示である。

前者に関しては、主に中学生の家庭学習がどう変わったかを辿る。1970年代、1980年代、1990年代と分けて、それぞれの時代の学習法の特色を、学習雑誌、学習参考書、問題集、学校のテスト、塾などの変化と関連させて見ていく。すると、1970年代と1990年代との間に、子供たちの家庭学習が大きく変わったことが分かる。更に、1990年度から1996年度のデータを子供たちから取って、在学年度別中学生の家庭学習の姿勢の推移を辿っている。ごまかし勉強や、そもそも家庭学習をしないという割合が、この僅かな間にも急増していることが分かり、実に興味深い。(三校の大学生から、中学時代の勉強を聴取したようだ。三校の大学は、偏差値で65,55、45とのこと)。

もう一つ、ごまかしでない正統派の勉強を、どのようにやるのかに関しては、下巻で主に説明されている。中高生対象に科目別のアドバイスがあり、この本を自分の勉強の見直しに使うことも出来る。又、ごまかし勉強の副作用が如何に大きいか、も強調されている。ごまかし勉強の蔓延が、本人の学習観に影響して人生に大きなマイナスになるだけでなく、社会的にも深刻な事故やトラブルに繋がりかねないことを指摘して説得力がある。

小商いのすすめ


平川克美『小商いのすすめ 「経済成長」から「縮小均衡」の時代へ』ミシマ社、2012

前書きに述べられているように、本書は商いに関するビジネスノウハウの書ではない。ビジネスとはいかにあるべきか、その姿勢を問うことを通じて、震災後の社会のあり方を考えた書籍だと言える。

大きく3つぐらいのテーマから構成されているように思う。第一に、昭和30年代を前後した社会のありようの変化。この変化は、過去の豊かさを今日的な豊かさの尺度に置き換え、結果として、現在の社会問題を引き起こす契機となった。第二に、出生率の低下の原因を再考察することを通じた、今日の社会の根本的な問題についての再検討。確かに本書で指摘されるように、将来が不安だから出生率が減少している、という一般的な主張は、疑わしい。将来が不安だから、子供をたくさん作ってリスクに備えよう、という主張もまた、単純に成立するからである。最後に第三に、新しい未来に向けた方針として、「いま・ここ」に責任を持つためにも、贈与からはじめ直そうという主張である。

いずれも興味深いが、第一と第三の点については、議論の余地があるように見える。第一の点については、過去はよく見えるものだというノスタルジアを考慮する必要があるだろう。もっといえば、過去がよく見えるということこそ、現代資本主義の戦略に他ならない。昔に返れという主張もまた、結局は今を変化させ、駆動させねばならないという論理のもとにあるからである。小商いの世界が過去にあり得たかどうかというよりは、そういう思考そのものが、現代資本主義とともにしかもはやありえない。それを悲壮のうちに捉えるのではなく、むしろ可能性として捉え直すことこそが、現代の我々の生き方であろう。

それゆえに、第三の点については、改めて始まりとしての贈与を考える必要はないように感じる。もっといえば、原初としての贈与の一撃は、この社会を支える神話でありフィクションでしかない。現代資本主義社会の中で僕たちが考えねばならないのは、こうした神話やフィクションが崩壊した中でいかに生きるのかであり、ギラギラした欲望はもちろんいらないが、無償さも必要ない。僕たちは最初から最後まで、今も昔もソーシャルなのである(そういう意味でのちょっとした贈与みたいなもの、はある気がする)。贈与は常に見返りを要求する形で社会に取り込まれるのだから(そういえば「容疑者Xの献身」は秀逸だった)、それが贈与であることを知ることは既に悲劇でしかない。

答えは、逆説的だが、結局本書が言うとおり、「小商い」をはじめることにあるような気がする。それは、過去のあり方を取り戻すわけでもなければ、贈与としてあるわけでもない。僕たちのちょっとした好奇心や向上心とともにある。本書で一番印象的だったのは、出版社であるミシマ社の存在だった。変わった返信手紙、ミシマ社通信が書籍に差し込まれていて、とても印象的だ。本書でも述べられていたように思ったが、これこそが小商いとみることができる気がする。きっと、ネット時代にも合致する。

2012年5月29日火曜日

商店街はなぜ滅びるのか


新雅史『商店街はなぜ滅びるのか 社会・政治・経済史から探る再生の道 (光文社新書)』、2012

衰退が叫ばれて久しい商店街についての歴史的研究である。いくつか改めて商店街を学ぶことができる。

第一に、商店街は伝統的な存在ではなく、むしろ、百貨店の成長に対抗すべく中小零細商が政府とともに作り上げてきた一つの理念であったということである。本書では「横の百貨店」についての当時の資料が様々に取り上げられている。このさい、単なる繁華街における商店街だけではなく、いわゆる街に根ざした商店街という考え方も取り込まれていったという点は、なるほど、商店街の今日を考える上で重要な意味を持つ。

第二に、製造業との関係性やスーパーの台頭という時代変遷の中で、やがて商店街は自立性を失っていく。社会全体として、流通革命論や外圧が用いられることによって、商店街や中小零細商の衰退は日本経済にとっては望ましいともみなされるようになった。その一方で、逆にそうした滅びゆく商店街や中小零細商を救う名目で、大店法の強化や財政投融資が導入されることにより、いよいよ彼等は問題解決を目指すという力を失なった。

第三に、中小零細商はやがてコンビニに代表される近代システムの形をとって装いを新たにするようになる。だがそれは、商店街の復活を意味するというよりは、近代流通システムによる中小零細商の取り込み(あるいは、相互の妥協なのかもしれない)であり、商店街という理念そのものは取り残されたままになっている。

個別の議論自体は、本書でも指摘されているようによく知られている内容である。商店街や中小零細商がどうして今も存続しているのか、という点についての研究はたくさん進められてきたからである。制度の問題、市場スラックの問題、流通経路の問題、自己雇用の問題、それから家族や継承の問題、いずれも相互に批判しながら議論が深められてきた。逆に滅びる理由を問うても、あまり意味自体は変わらないだろう。

むしろ、今、商店街を問い直したということこそが、本書の重要な点であろう。震災を通じて、商店街の役割、あるいは小売業も含めた地域企業の役割が見直される可能性があるからである。今ならば、商店街を救い出すことができるのかもしれない(それは、今の商店街とは違うものであるかもしれないが)。遡ってその出自を問い直し、別のシナリオを描き直すことが大事なのだろう。

2012年5月26日土曜日

寝ながら学べる構造主義


内田樹『寝ながら学べる構造主義』文春新書、2002

この本は、内田樹が市民講座で行った講義のノートが基になっている。講義は、構造主義の一覧的な情報を、予備知識もほとんどない平均年齢60歳の方々に、90分で伝えるというもの。だから分かりやすさが、まず目指されている。しかし、「分かりやすい」と「簡単」とは異なる、と内田は言う。彼は、話を複雑にすることで、話を早く進めるという戦術を採っているらしい。まえがきには、「私が目指しているのは、複雑な話の複雑さを温存しつつ、かつ見晴らしのよい思想的展望を示す、ということです。」と書いている。

彼は、この本の中で、構造主義をひとことで言えば次のような考えだとしている。「私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。」「私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に『見せられ』『感じさせられ』『考えさせられ』ている。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない」。こうした理解の下に、人間の自由とか自律性がかなり限定的だという点を徹底的に掘り下げたことが、構造主義という方法の功績だと言う。

構造主義をそのように解すると、そこからは、かなりすっきりした思想の脈絡が開ける。構造主義前史として、マルクス、フロイト、そしてニーチェの思想が説明される。構造主義との関わりで見ると、この3人の思想はそれぞれ実に明快であり、思想史としても、又3人の思想のエッセンスの勉強としても役立つ。次に、構造主義の始祖として、言語学者のソシュールの思想が取り上げられる。ソシュールの独特の言語観は、内田の説明でかなりすっきりと理解出来る。その後、いよいよ構造主義の四人の思想家、フーコー、バルト、レヴィ=ストロース、ラカンの理論が、それぞれ説明されている。いずれも難解な思想には違いないが、それぞれ具体例を挙げて、イメージが膨らむように丁寧に説明されていて分かりやすい。

内田は、まえがきで、入門書の最良の知的サービスは、根源的な問いを示して読者を知的探求に誘うこと、と書いている。実はこの本では、明快な説明の一方に、構造主義者が直面した問題が、直接読者に差し向けられている。内田は、既に第一章で、構造主義の考え方が、今や多くの人々にとって既に常識となっていると指摘した。「構造主義の思考方法は、いまや、メディアを通じて、学校教育を通じて、日常の家族や友人たちとの間でかわされる何気ない会話を通じて、私たちのものの考え方や感じ方を深く律しています。」

構造主義の思想家の難解な議論がそれなりに分かってくることで、彼らが取り組んでいた問題の難しさとその現実的な深刻さが、人ごとでなくまさに自分の問題として、浮かび上がってくるのではないかと思う。

2012年5月25日金曜日

少しレイアウト変更

右側のレイアウトを調整。
特段意味はありませんが。

結構コンテンツ増えてきました。引き続き引き続き。

2012年5月24日木曜日

ドラゴンフライ エフェクト


ジェニファー・アーカー&アンディ・スミス『ドラゴンフライ エフェクト ソーシャルメディアで世界を変える』翔泳社、2011。 

タイトルがかっこいい一冊。トンボ効果ということらしい。 帯にもある通り、その意味は、トンボの羽よろしく、4つの羽の動きが揃ってはじめて、うまくいく。ちなみに4つとは、焦点を一つに絞る事、注目をうまく集める事、魅了する事、それから行動する事である。

ソーシャルメディア、社会変革、デザイン、それからビジネスといくつかのテーマが重なっており、全体としてうまく議論が出来上がっているかどうかはよくわからない。せっかくのタイトルからすれば、ソーシャルメディア→バタフライ・エフェクト「ジャンプ」ドラゴンフライ・エフェクトぐらいの設定をしても良かったように思う。そういう期待をもとに読んだ事も確かだが、関係ないようである。

バタフライ・エフェクトならば、複雑系の話としてよく知られている。北京で蝶が羽ばたく事で、ニューヨークで嵐が起こるというわけである(詳細はwikiにも載っている)。著者がこの効果を知らないはずはあるまい。ソーシャルメディアにせよ、社会変革にせよ、これらはバタフライ・エフェクトと密接に関わっているようにみえる。ビジネスも然りである。その上で、更にもう一つ、新しい蝶ではなくトンボである何かが見えればよかったのだが、と思う。

個別の事例はそれぞれ興味深い。著者はブランド論の大家、ディヴィッド・アーカーの娘らしい。そう思って読むのも面白いかもしれない。

2012年5月23日水曜日

現実界の探偵


作田啓一『現実界の探偵 ─ 文学と犯罪』白水社、2012

タイトルからは中身を想像しずらい本である。文学と犯罪を対象にして、現実界という点からの考察が行われている。「現実界」とは、ラカン派の精神分析で用いられる考え方であり、我々のこの世界(想像界とよばれる)の裂け目の向こう側、残余を示す。どうやら、現実界は我々やこの世界に対して、不気味なものと認識されたり、空虚な何かとして認識される事があるようだ。そして、現実界は、我々やこの世界に対して、様々に影響を及ぼしている。

本書を見る限り、文学は、想像界からこぼれ落ちる現実界を問題とし、現実における犯罪もまた、こうした現実界を念頭におくことでよりうまく理解が可能になる。確かに、いずれもラカン流の分析が可能であろうが、本書の中での文学と犯罪のつながりは弱い。例えば、前者で指摘される時間的な円環は、後者ではほとんど議論されない。後者で議論される近年の無差別殺人の多くは、漠然とした社会への反抗として理解されるが、そうであれば文学によらずとも、あるいは現実界によらずとも、説明できるようにもみえる。

文学はいざ知らず、近年の無差別殺人の問題をどう考えたら良いのか、どのようによりよい社会を考えていけばいいのか、その答えはまだ見えていない。たぶんそれは、社会への対抗と言った理由ではなく(そうであれば、社会を変革すればいいだけである。本書でも「官僚制」に対する批判がみられる)、本書の前半が示すように、現実界についての考察がもっと求められるのだろう。現実界は、想像界と空間的に異なっているというよりは、時間的に異なっている。それは何を意味するだろうか。更に構成上いえば、文学の役割は、ありうべき社会を構築する術として捉えられるのではないだろうか。文学は、未来を先取りした一種の予測でもあり、浄化でもあり、それゆえに我々やこの世界に組み込まれている。

ちなみに、帯は大澤真幸氏の推薦となっている。以前、なぜ人を殺してはいけないのかについての考察があったように記憶している(書籍は見つからなかった)。端的に理由を与えられないこの問いは、これからの社会を考えるきっかけを提供し続けると思う。


2012年5月22日火曜日

愛されるアイデアのつくり方


鹿毛康司『愛されるアイデアのつくり方』WAVE出版、2012

昨今のエステーの広告を企画している鹿毛氏による一冊。副題には、ヒットCMを生み続けるエステー式「究極の発想法」とある。 

エステーの広告で一番印象深いのは、震災後のCMだろう。 震災の際にACの広告ばかりが流れる中、かなり早い段階でミゲル君が消臭力の歌を歌う広告を制作した。 自粛ムードが漂う中、広告としてなにができるのか、その一つの方向性を提示するとともに、その後の流れを決定づけたように思う。その印象は強く、いつか震災時の広告研究が行われることがあれば、重要な分析対象になるといえる。



本書で書かれているように、CMには、常に「偽善」が含まれている。どんな広告であっても(ACを除いて)、商品を買ってもらいたいというメッセージから自由にはなれない。その制約をいかにしてコミュニケーションの可能性に繋ぐのか、これこそがクリエイターに求められている課題だろう。 

具体的に何をすればよいのか。それはひとまず本書を読んでから考えても遅くない。そのやりかたは一つではないし、きっと個性がある。月並みだが、常識を踏み越え(るために)、あっちこっちに頭をぶつけながらやる必要があることは確かだと思う。

時代小説の江戸・東京を歩く


常盤新平『時代小説の江戸・東京を歩く』日本経済新聞出版社、2011

東京の町は、余りに大きく何でもあるので、範囲を絞り焦点を合わさないと見えるものも見えない。テレビによく出る国会議事堂や、新宿の雑踏や、墨田川を背景にしたスカイツリーなど、目立つものだけが東京なのではない。実は東京の町に関心を持ち注意して見ていくと、各地域がそれぞれ独特の歴史と特色を持ち、様々なものや事が集積した活力ある不思議な町だと分かって来る。やはり、徳川家康から400年、ずっと日本の中心だっただけのことはあるのだ。その魅力の一端を、この本は上手に紹介している。

この本では、日本橋、人形町、神田、八丁堀・浅草橋、両国、上野、浅草・向島、深川、目黒・品川が取り上げられている。話の補助線は、藤沢周平、池波正太郎などの時代小説である。いずれも、江戸時代を舞台とする物語で、当時の人々や町の様子が生き生きと書き込まれている。そうした時代小説のファンはもちろんのこと、その予備知識が無くても、この本の知識で十分散歩案内となっている。

例えば、池波正太郎の鬼平犯科帳の主人公、鬼平こと長谷川平蔵は、火附盗賊改の役人である。与力や同心の上に立ち、極悪人の取り締まりに大活躍した実在の人物で、深川の菊川に住居があったらしい。六軒堀という地名が、話の中によく出てくるが、それは今の森下駅A2の出口北側だそうだ。今では堀は埋められて、住宅地となっている。先日、NHKの「ブラタモリ」という番組で、まさにその場所が取り上げられていた。そこには、太平洋戦争直後まで堀は残っていたのだが、その後埋め立てられた。しかし、堀に沿って作られていた手すりが、今も路地裏に一部残っていると紹介されていた。

歴史という点では、東京より京都の方が古い。しかし、東京の地はここ数百年、江戸から、明治・大正・昭和・平成へと、日本近代の歴史の激動をくぐり抜けてきた。歴史の視点を交えると、町のあちこちが様々な奥行きをもって浮かび上がってくる。この本を手に散歩すると、まさにそのことがよく分かる。

2012年5月21日月曜日

ひたすら読むエコノミクス


伊藤秀史『ひたすら読むエコノミクス』有斐閣、2012

ポップなデザインの教科書である。一般的な経済学の教科書とは異なり、ずいぶんと読みやすい内容になっている。一般的な経済学の教科書とは、おそらく内容も少し違う。冒頭で述べられている通り、企業の戦略に焦点を当てているところが特徴的だろう。経済学というと、特に初期の場合は、企業を点のように捉えるところに一つの特徴があったが、むしろ今では、企業そのものを取り扱えるようになっている。この点では、まさに企業戦略や競争戦略に関わる人々にとって重要な一冊である。

それにしても、読んでいて自分自身再確認したのは、学問そのものを学ぼうとしてしまうと、実に苦痛だという事である。経済学にしても,経営学にしても、社会学にしても、用語をひとつひとつ覚えていく事はほとんど不可能に近い(若ければできるのかもしれないが)。大事な事は、おそらく、学ぶ事を手段に置き換えるということだろう。例えば、自社の売上を上げたいという目的意識の下で、書籍を読む必要があるというわけである。これほど平易で読みやすいはずの教科書ですら、目的を欠くとうまく読み込めない。逆に言えば、いかに難解であろうとも、目的さえはっきりしていれば、読めるのではないだろうか。

経済学の教科書の多くが読みにくいのは、数式が多いからではなくて、多分、それを読む目的や理由、意味が自覚されていないからである。数式が抽象的でわかりにくいという指摘も、大体同じ問題だろう。それが自分にとってどういう意味があるのか、自分で判断する能力がないのだ。何の為に読むのか、自分の能力を問い直す必要があるのだろう。

2012.05.31
著者のHPを拝見した。教科書ではなく、副読本ということでした。
「詳しくは以下で提供する第1章で説明していますが,この本は教科書ではありません.「副読本」として使われることを想定しています.」
『読むエコ』ホームページ

2012年5月19日土曜日

「婚活」時代


山田昌弘・白河桃子『「婚活」時代 (ディスカヴァー携書)』、2008 

「婚活」という言葉がずいぶん普及した。
意味は結婚を求めた活動ということであろうが、
そうであれば、今更そうした活動を「婚活」とあえて呼ばねばならない理由もない。
婚活とは、結婚を求めた活動ではない何か、あるいは、
少なくとも旧来の活動とは異なる何か、のはずである。

本書を読む限り、婚活が新しい何かというわけではないようだ。
今まで通りの婚活がうまくいかなくなっている背景と、その対策が語られている。
彼氏をつくらなくちゃ、30才までに結婚しなくちゃ、
これまで統一された名称もないままに行われてきた活動に改めて、
コンカツという言葉が与えられたということなのだろう。

一方で、ひとたび言葉が広まれば、その言葉を軸にして新しい活動が生まれる。
言葉が実を生み出し、その実が改めて言葉を規定する。
いずれ、婚活が新しい何かとなる。
それで結婚率が上がるかどうかはわからないが、
社会現象としてそれ自体が興味深い。

2012年5月18日金曜日

大地動乱の時代


石橋克彦『大地動乱の時代-地震学者は警告する』岩波新書、1994

日本には、毎年台風が来る。台風は、数日前から予告されていて、ある時とうとう日本に到達、そして来たなと思うと数時間後にはよそに行き、翌日には海の彼方に消えている。怖いのは、ほんのひとときだ。一方、地震は突然来る。予測できない点で怖いが、しかし、生死に関わるような大地震は滅多に来ない。普通たいていの人は、地震に人生を左右されるなどということなしに、一生を送ることが出来る。多分、1995年1月17日の神戸市を中心とする阪神大震災まで、多くの人はそう思っていたのではないか。(私自身も含めて。)

「大地動乱の時代」という、やや大仰なタイトルのこの本は、阪神大震災の直前、1994年7月に刊行された。翌年1995年初めの神戸の惨状を見た後では、このタイトルも、必ずしも大げさではなくなったのではないか。まして、2011年3月11日の東日本大震災を経た今となっては、まさにこのタイトル通りであって、特に問題があるとは思えない。著者の石橋克彦は、現在は神戸大学名誉教授。しかし、1995年刊のこの本が主に焦点を合わせているのは、実は神戸ではなくて首都圏・東海地方である。

「幕末にはじまった首都圏の大地震活動は、関東大震災をもって終わり、その後東京圏は世界有数の超過密都市に変貌した。しかし、まもなく再び大地動乱の時代を迎えることは確実である。」とこの本では主張される。主張の根拠として、石橋は地震の規則性に注目し、そのメカニズムを丁寧に説明している。説明の前提は、日本列島は四つのプレートが集中的にせめぎあっていて、そのために世界有数の地震活動地帯となっているというお話だ。2011年3月11日の東日本大震災の後には、この理論をあちこちで散々聞かされることになった。

「大地動乱の時代」というタイトルは、日本では今や誰にも異論はないのではないか。2011年3月11日以降、東日本太平洋側では無数の余震が相次いでいて、まさに日本は地震列島だと日々思い知らされている。ところが、石橋がこの本で警告した、首都圏・東海地方の大地震は、現時点ではまだ起きていないのである。現在続いている地震はあくまで別の大地震の余震であり、本番はまだこれからということになる。

実は、阪神大震災まで50年近く、日本では1000人規模の犠牲者が出る大地震はなかった。だから、20年近く前までは、台風の方が地震より怖かったのだ。しかし、今ではそれも多分エピソードでしかないだろう。現在、日本では大地動乱は前提であって、個人も家族も企業も公的セクターも、すべての話は近く起きる大地震を踏まえたものでなくてはならない、ということではないか。石橋は、1997年には「原発震災」という言葉で、地震と原発の関連を警告している。少なくともここ数十年は、日本において大地動乱を踏まえない議論は、あらゆるレベル、セクターにおいて不毛であると思える。

2012年5月17日木曜日

ipadで楽々英文を読もう。翻訳が簡単。


Apple iPad2 ブラック 16GB Wi-Fiモデル MC769J/A 国内版

ipad2を今更ですが買いました。
別に新しくなくても困らない。むしろ、安いし、軽いし、薄いし。

何に使うかというと、英語の本や文章を読もうというわけです。
PDFなんかもまとめて読めます。
便利なのは、一瞬で日本語訳を検索できること。
正直、この検索は便利すぎ、辞書を引く(紙媒体、ネット検索)、
スキャンできるやつ、などを完全に超えています。

何か新しいことをする必要はありません。

1.まず、英文のPDFなどをipadに読み込みます。
Dropbox経由でも、それから定番のgood reader経由でもOK。
ただこの際、PDFはちゃんとOCRがかかっているなど、単語を認識できないと駄目です。

2.PDFを開き、わからない単語に行き当たったら、その単語を長押し。

3.「翻訳」や「translate」と表示されるのでその上にカーソルを合わせるか、クリックで訳語の表示。

おそらく、最後の翻訳については、デフォルトの辞書で機能させることも出来ますし、別途購入した辞書アプリなどと連動させることも出来るのだと思います(この辺りはよくわからない)。

いずれにせよ、これで読む快適さは向上します。しかも、good readerであれば、PDFにコメントを書き込むことも出来ますので、メモも可能。

まあ紙の方が読みやすいともいえますが、この翻訳は便利です。

2012年5月16日水曜日

津波災害-減災社会を築く


河田惠昭『津波災害-減災社会を築く』岩波新書、2010

津波の恐ろしさは、今や日本では誰でも知っている。2011年3月11日、地震の後、大津波が三陸などの人々を襲う信じられないような光景は、多くの人が映像で繰り返し目にした。
この本は、あの東日本大震災の大津波が起きる少し前、2010年12月に刊行された。しかし、大津波の前にこの本を手にした人は少なかったのではないか。ちなみに、私がこの本を入手したのは、大津波から2週間くらい後のことだ。本に付けられた帯には「必ず、来る」と大きく書かれていて、書店の店頭で見掛けた時、あたかも予言の書のように見えた。

著者は、河田惠昭。防災・減災を専門とし、現在、関西大学社会安全学部長・教授である。まえがきには、本を出版するきっかけとなった津波のことが書かれている。2010年2月27日に起きた、チリ沖地震津波だ。このときの津波は、太平洋を越えて、日本にも翌日押し寄せた。日本では、168万人に達する住民に避難指示・避難勧告が出されたが、96%の人は避難しなかったという。その時には、幸い人的被害はなかったようだ。しかし、住民の避難率の余りの低さに、この本の著者は危機感を抱く。「沿岸の住民がすぐに避難しなければ、近い将来確実に起こると予想されている、東海・東南海・南海地震津波や三陸津波の来襲に際して、万を超える犠牲者が発生しかねない・・」。そう書かれた僅か数ヶ月語に、三陸中心にまさにその通りの被害がもたらされたことになる。

当然、もう大津波が起きてしまったから、この本は無用だということにはならないだろう。大津波の直前に、著者はこう書いている。なぜ津波が侮られるのか、それは津波について知識不足、そして何より恐ろしさを知らないから。今や多くの人は恐ろしさは知っているが、知識不足は変わらないのではないか。例えば、こんなことが書かれている。津波は単なる高い波ではないし、何度でも繰り返し押し寄せるし、4メートルの津波に対して5メートルの堤防があるから大丈夫とは言えないし、伝承がないから歴史的に大丈夫とも言えない、などなど。そして、東京湾や各地で大津波が押し寄せた場合を想定して、行政や地域、教育など様々なレベルでの対策を提言している。

この今、既に起きてしまった大津波被害からの復興と当時に、次の大津波災害の被害を減少させるための本気の対応が、個々人の備えを始め必要なことは確かだ。

夢よりも深い覚醒へ


大澤真幸『夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学 (岩波新書)』、2012

震災の傷が癒えたとはとても言えないが、1年が経ち、震災に関わる様々な論考を目にすることができるようになってきた。本書は、震災を手がかりにした哲学書であるとともに、実際の震災問題として脱原発を目指すという二重の論考である。

本書が指摘するように、原子力をめぐる言説は、おそらく世界的にみても、この50年間で大きく変容してきた。その中にあって、我が国では、原爆という経験がトラウマのように機能し、原子力を手のうちに収めようという反動が強く機能してきたとされる。核の平和利用として原発がたくさん作られてきた背景には、経済的理由はもちろんだが、こうした社会心理的な影響がある。

今回の震災によって気づかされたのは、我々が戦後の発展において大きな問題を抱えてしまっていたという事実であり、同時にそれは、地震と原発問題という2段階の問題が立て続けに生じることによって、本書に従えば、夢(これは夢のようだ、と思っていられる)よりも深い覚醒(その夢にこそ驚き、現実に引き戻される)の契機として提起された。この覚醒の感覚を忘れてしまう前に、行動を起こさねばならないというわけである。

全体のトーンとしては、『不可能性の時代』の中で指摘されてきた理想の時代、虚構の時代、不可能の時代が再確認され、原子力がその象徴的な対象として説明される。おそらく、対象は原子力でなくてもいい。オウム真理教であっても、9.11であっても議論可能だろう。これらの論理構成自体が、偶有的であることは確認しておいた方がいいかもしれない。

個別に、いかにして現実を変えていくのかという点について、正義論からはじまる未来をいかにして現在に取り込むのかという考察が興味深い。逸話としてはノアの箱船がわかりやすい。人は、将来の見えないリスクを過小評価する。明日大洪水がおこると言われても、そう簡単に信じることは出来ない。このとき、説得の方法として、明日起った大洪水を、今に再現してみせることが大事だという。同時に、後半の江夏の21球で例示されるように、その問題について、真剣に考え抜く覚悟が必要であろうともされる。

未来を現在に実現させることは、変えられる過去を作り出す。対して、現在を起点にして、確率的に未来を予測することは、常に予想外を呼び込むことになり、どこかでこれ以上は考えないでおこうという決断を伴ってしまう。そうではなく、未来を今覚悟として確定させ、その上で現在とのずれを確認し、すりあわせるという方法が提示されているように感じる。

※この試みは、どこかで決め打ち的、本書で言えば、宿命論の様相を帯びている。未来のありうべき姿をどのようにして決めるのか、という点については議論がありそうである(ここに、結局は予測が入り込む)。また、一般論として、行政や企業は、5年計画などの長期計画を策定する際、未来の形を決め打ちしているようにも見える。この手の話とどう違うのか、読み直す必要がある。


2012年5月15日火曜日

松下幸之助に学ぶ経営学


加護野忠男『松下幸之助に学ぶ経営学 (日経プレミアシリーズ)』2011

これまで日本の経済を牽引してきたはずの家電産業は、ずいぶんと苦境に追いやられているように見える。先に見たソニーに限らず、総崩れという印象さえある。あれほど優れた仕組みを構築し、世界を席巻したにもかかわらず、どうしてなのだろうか。2012年に生きる我々が知りたいのはここである。

その意味では、本書はあくまで松下幸之助を中心にして学ぶ経営学である。現状を分析するわけではない。温故知新、矛盾とうまく向き合い、時代の流れにうまく適応してきたという松下幸之助は魅力的だし、利益の追求が企業の目的ではないという主張もよくわかる。こうした創業時代の思いが失われていることが、現状を作り出している原因なのだともいえる。

考えてみれば、リーダーシップとは何なのだろうか。松下幸之助が優れていたことはきっと間違いないが、だからといって、その後の組織が未来永劫安泰というわけではないし、本書でも指摘される通り、時代が変われば、パフォーマンスも変わっていたかもしれない。リーダーシップの分析は、リーダーそのものというよりは、彼等が生きた文脈を特定し直すという作業のようにもみえる。

一方で、リーダーそのものを繰り返し問うことにも意味がある。特に過去のリーダーは、象徴であり、神話である。彼等についての語りが繰り返し行われることで、組織は求心力を保つことができる。類似した書籍がこのところ多くでている気もする。本田宗一郎や中内功、こうしたリーダーを語ることは、企業のみならず、日本の求心力を取り戻そうという活動の一つなのかもしれない。


2012年5月14日月曜日

新しい世界史へ-地球市民のための構想


羽田正『新しい世界史へ――地球市民のための構想 (岩波新書)』、2011

現在の日本の高校では、学習指導要領により世界史は必履修科目となっている。だから、高校生全員が世界史を学んでいることになる。しかし、世界史が他の社会科目とはかなり異なる面があることは、普通余り意識されていない。世界史は、1951年の学習指導要領から高校教育に持ちこまれた。大学には、東洋史や西洋史はあっても、世界史専攻はそもそもない。だからこの本で指摘されているように、「大学で世界史把握の方法を教えられていない新任の高校教師は、どのように世界史を教えるかを自分自身で試行錯誤的に試してみるより他に方法がないのである。」

さて、この本の著者、羽田正は、イスラーム世界の研究者で、東京大学東洋文化研究所所長である。彼は最近、初対面の人に自己紹介する時に、専門の研究分野は世界史だと言うそうだ。しかも、「場所や時代に関係なく、世界史全体をどう描くかということを研究しています」と付け加えると、相手が戸惑い、しばしば話が途切れてしまうと書いている。今や、世界史の大筋と描き方は皆が既に決まったイメージを持っており、一方で歴史研究者は地域と時代を限って研究するものとみられているからだ。

この本のメッセージは、「現在私たちが学び、知っている世界史は、時代に合わなくなっている。現代にふさわしい新しい世界史を構想しなければならない」というものである。羽田は、まず現在の世界史という科目が、戦後の日本でどのように形成されたのかを辿っている。次いで、現在の世界史の問題点を次の三点にまとめている。

①現行の世界史は、日本人の世界史である。
②現行の世界史は、自と他の区別や違いを強調する。
③現行の世界史は、ヨーロッパ中心史観から自由ではない。

これらの問題点を踏まえた新たな世界史の構想を、彼は試案として提示している。そこで提案されているのは、三つの方法である。

①世界の見取り図を描く。
②時系列史こだわらない。
③横につなぐ歴史を意識する。

多分、現行の世界史とは、随分異なるものとなりそうだ。高校生全員が学ぶ世界史も、今や高校生に余り人気が余りないように見える。よく言われるのは、覚えることが多すぎる、という点だ。しかし実際はこの本が言う通り、時代に合わなくなっているが故に、特に若者に理解しにくくなっている、ということではないか。


MBAに有線のLANコネクタがない件


Apple USB Ethernet アダプタ MC704ZM/A

Mac Book Airにして一年ぐらい経ちました。以前はWindows派だった身としては、既に使い方にも慣れ(若干不便なところもあるが)、快適です。ただ、出張のさいなどには、ネットにつながらず、あらっと思うことがしばしば。

ビジネスホテルにとまると、有線LANで繋ぐ場合が多いのです。東横インなんかもまさにそうですが、セキュリティの問題からか、無線LANでとばしてくれるところは少ない気がします。そうすると、どうしてもMBAをネットに繋ぐことができませんでして、ちょっと悔しい思いをしてしまう。

有線LANをつなぐコネクタぐらいどこかに売っているだろうと探してみると、アップル純正がありました。やっぱり必要だと思っている人が多いようで。。。次回の出張に備えて一つ。こうして、だんだんガジェットが増えていくわけです。

さよなら!僕らのソニー

 
立石泰則『さよなら!僕らのソニー (文春新書)』、2011。 

この数年、エレクトロニクス産業の凋落が特に指摘されるようになっている。韓国や中国の新興企業、あるいはアップルに太刀打ちできなくなっているというわけだが、その最も象徴的な存在がソニーである。

ソニーの失墜については様々な考察が存在しているが、先の海外勢の存在を外的な要因だとすれば、一方で内的な要因もしばしば指摘される。すなわち、相対的な技術優位性が失われつつあること、その理由の一つとして、トップマネジメントの失敗に伴う組織運営に問題があったというわけである。

 本書は、後者の内的な要因に焦点を当てて議論が進められている。組織的な問題は、ひいては海外勢との競争にも影を落とすことは言うまでもないからである。興味深いのは、この考察に当たり、歴代のトップマネジメントについて比較的客観的な分析を加えている点であろう。この背景には、貴重なインタビューに基づく判断がある。

多くの場合、あの社長が悪かったのだ、という実に属人的なストーリーになるわけだが、社長一人が変わった程度で、これほどの大組織が急激に変わるはずもない。トップマネジメントは徐々に影響を及ぼすはずであるし、そもそも当の新しいトップは、多くの場合、既存の組織を作る為に貢献していたはずである。(急激に変わる組織があるとすれば、それは、戦略的な見せ方の問題であるように思われる。その見せ方が、現に組織変革の引き金となることも確かであるが。) 

トップマネジメントが悪かった、と後から言うことは容易い。だが、本書にみる通り、トップとて最初から会社をつぶそうとして行動するわけではない。行動の中でトップ自身が変容していくのであり、その変容も含めた行動の中で、組織はよくもなれば悪くもなる。トップの変容も含めた組織力学のあり方を学ぶことが大事なのであろう。


2012年5月12日土曜日

三商大 東京・大阪・神戸


橘木俊詔『三商大 東京・大阪・神戸――日本のビジネス教育の源流』岩波書店、2012

歴史的記述でもあり、経営学を再確認する上でも興味深い一冊である。本書では、我が国の明治以降の商業を担う人材を輩出してきた三商大に焦点を当て、その歴史的な展開を考察している。

中心を担うのは、東京=一橋大学である。一橋大学が現在の地位を獲得するまでの経緯が語られる。大阪=大阪市立大学、神戸=神戸大学についての記述は相対的に少ないが、これらの大学の歴史的記述も行われ、さらには三商高大についても考察が行われている。

本書を読んで最初に連想するのは、ミンツバーグによる『MBAが会社を滅ぼす』であった。実際、後半には海外のビジネススクールが議論されている(どうしてその章の写真がマイケル・ポーターなのかはよくわからない。もっと前に焦点を当てるキーパーソンはいたように思われる)。

我が国のビジネス教育がいかにして展開してきたのかを問うことは、教育がこれからどうあるべきかという問いに答えるための材料を提供することはもちろん、今日的な日本経済のあり方についても一石を投じるものとなろう。教育の重要性も再確認できるように思われる。

本書は全体的に平易な内容であり、想定される読者層は広いように思われる。各大学の卒業生はもちろん、ビジネスのあり方についての理解を深めることもできる。なぜか、橋下市長に対する評価なども語られている。一般読者層を想定しているのか、それとも、歴史に関わる研究者を想定しているのかをわかりにくくしている印象もあるが、現実は区分不可能な中で進んでいくということであろう。


日本社会で生きるということ


阿部謹也『日本社会で生きるということ』朝日文庫、1999=2003

著者の阿部謹也(1935-2006)は、ドイツ中世史の研究者。西洋史研究の傍ら、日本社会についても考察を重ねた。日本社会論としては、「世間とは何か」(講談社現代新書1995)がよく知られている。日本では個人と社会との間に「世間」が存在する、そして人々はその「世間」を前提に生活しているという彼の指摘は、多くの日本人にとって当たり前であったが、にもかかわらず斬新だった。「世間」は、言葉ではうまく対象化出来ないものだからだ。阿部はこの本の反響について、「学者諸氏の反応は全くなかったが、読者の反応は大きかった」と書いている。

その後、阿部は一橋大学学長、国立大学協会会長など要職を勤めつつ、日本の「世間」に関する研究を進め、更に読者の要請に応えて各地で講演を行った。「日本社会で生きるということ」は、1990年代後半に人権問題講習会などで行われた五つの講演を1冊にまとめたのものである。

講演のタイトルは、次の通りである。

1 「世間と日本人−新しい差別論のために」
2 「世間」とは何か
3 差別とは何か
4 公衆衛生と「世間」
5 日本の教育に欠けているもの  

阿部が、日本人にとって「世間」の重要性に気付いたのは、ドイツで生活している時だったという。個人と社会の関係が、ヨーロッパと日本ではまるで異なる。にもかかわらず、日本ではあたかもヨーロッパと同じく社会と対峙する個人が存在すると建前上前提されているという。

日本では、世間を前提しないと大人として生きられない。この本の最後の講演「日本の教育に欠けているもの」の中で、阿部が語っていることは、私には衝撃であった。「私が自分の学生たちを見てて問題だと思うのは、両親が小学校の先生だという子供です。そういう学生に会うと多少用心します。それは配慮しなくてはいけないことが多すぎるからです。・・・家庭の中でも教師としての建前を実践し、それを社会に示さなくてはいけないのが教師なのです。気の毒だと思います。そういう建前はすっきりやめて、本音で教えなくてはいけない。しかし、本音で語るには1人ひとりが力がないとできないのです。力がない教師は建前にすがり、そして自分の子供にも建前だけで対応しようとするものです。」

「世間」という対象化しにくい現実を、阿部は講演の中で具体例を挙げつつ分かり易く語っている。しかし、勿論分かるけれどもそれを対象化し相対化することは、とても難しいとやはり思う。
(代理投稿)

 

ソーシャルメディア社会論


武田隆『ソーシャルメディア進化論』ダイヤモンド社、2011

自身の活動を振り返りつつ、ソーシャルメディアをはじめとするコミュニティサイトの可能性について考察している。全体としてよみやすく、また後半の議論は事業そのもののビジネスとしての可能性も感じられる。

特にコミュニティサイトを2軸で分類している図表はわかりやすい。横軸は、情報交換ー関係構築を分類し、縦軸は、価値観ー現実生活を分類する。ざっくりと対応し直せば、横軸は、ユーザーの短期ー長期利用の傾向を表し、縦軸は、匿名ー非匿名の傾向を示すと考えられる。この象限で多くのサイトを分類できるとともに、企業がそれぞれをどのように担い、また対応すべきかを考えることができる。

特に企業の対応という点では、企業コミュニティに再注目しているところが興味深い。一時期に比べると企業が自らのHP内にコミュニティ機能を有する必然性が薄れているようにも見えるが、本書の議論に従えば、むしろ企業コミュニティは新たな役割を与えられて復活しつつある。

とすれば、進化というよりは、行ったり来たりの流行の中で、総体として何かが変わってきていると言った方がいいかもしれない。しかしいずれにせよ、インターネットとのつきあい方について、現時点での見取り図を得ることができる。


2012年5月11日金曜日

天皇の影法師


猪瀬直樹『天皇の影法師』中公文庫、2012=1987=1983

歴史学者の阿部謹也は、日本人が日本社会を対象化する困難を指摘している。社会学者ですら、それをやっていないと。猪瀬直樹はこの本の中で、日本社会を対象化するという困難に、果敢にチャレンジしている。その際、彼は天皇に焦点を合わせている。

この本の内容は、4編の調査報告からなっている。まず大正天皇崩御直後の元号スクープ合戦と誤り、次に天皇の棺をかつぐ八瀬童子の近代以降の動向、又、森鴎外の元号研究への執着と「昭和」が採用される経過、最後が恩赦のいたずらという話である。最後の話は、1945年8月ポツダム宣言受諾直後の島根県庁焼き討ち事件とその後の顛末である。

最初に出版されたのは1983年であり、昭和から平成へと、間もなく時代が移ろうとしていた時期だ。天皇崩御や葬儀、元号や恩赦について、当時誰もが意識し考え始めていた。「禁忌の謎をとこうとした」と、彼は文庫版のあとがきに書いている。さらに「天皇は実在するが、又同時に人々の意識の底にとり憑いた幻想のひとつだ」と続けている。文庫版の解説は、歴史学者の網野善彦が書いている。網野は、この本が天皇の本質に迫ろうとしたと、高く評価している。

東京都副知事として、今や行政世界で大活躍される著者が、実は日本社会研究に果敢にチャレンジしてきた人物であることは興味深い。そしてこの本は、日本や天皇を考える時の手がかりや方法を示していて、今でも刺激的である。
(投稿代理)

2012年5月10日木曜日

ダイナミック競争戦略論・入門


河合忠彦『ダイナミック競争戦略論・入門 --ポーター理論の7つの謎を解いて学ぶ』有斐閣、2012

競争戦略論の入門とあるが、実際的には、ポーター批判を通じて新しい戦略モデルを提示しようとしており、要求される知識水準は高いように思われる。あくまでダイナミック競争戦略論の入門書である。

ポーターの競争戦略論は今や戦略論の基盤として認識されるようになっているが、同時に、以降の戦略論はポーター批判を通じて形成されてきた。こうした批判点を大きく7つにまとめ、その批判に答える形で議論が進められる。この構成はとてもわかりやすい。ただ、与えられた答えが納得できるかどうかについては、もっと議論できるように思われる。これは、「なぜ」と問うたときの解に対しては、多くの場合さらに「なぜ」と問えてしまうという程度のマーケティング問題でもある。

興味深いのは、一つにはポーター批判のバリエーションとして、プロダクトライフサイクルを用いたマーケティングの議論が援用されているという点であろうか。タイトルにある通り、ダイナミックであることを強調することによって、PLCに評価が与えられる。もう一つは、ブルーオーシャン戦略に対して、パープルオーシャン戦略を提示しているという点も興味深い。これもまた、ブルーオーシャンがダイナミックであるために必要である戦略として理解される。

競争戦略論の発展は、他にもいくつかの展開を見ることができる。ただ総じて、ダイナミックであろうとする議論は多いといえる。このとき、ダイナミックとは何であるのかという点については、別途考える必要がある。

ダイナミックであることを、時間の経過と、その経過による変化への対応として考えるのならば,結局スタティックな戦略論が構築されることになるだろう。RBVが結局のところPVの一バリエーションに過ぎないとされてしまうのは、ダイナミックであることの理解に甘さがあったからである。ケイパビリティへの着目の意義は、むしろダイナミックであることの意味を適応から開放し、創造へと反転させたことにある。

本書の議論を通じて、戦略論の可能性を改めて再確認し、ダイナミックであろうとする戦略指針の可能性を問い直すことができる。

追記(2012.06.07)
改めて考えてみると、ポーター流の競争戦略論の要諦は、その出発点にあるという気がする。すなわち、産業組織論をもとにして、完全競争の逸脱として戦略を捉えるという逆転の発想である。もし、ポーター流の競争戦略論を相対化しようとするのならば、この最初のポイントを相対化しなくてはならない。たくさんある謎は、おおよそこの最初のポイントではなく、このポイントからずいぶん先に派生した枝であるようにみえる。

最初のポイントは、要するに競争概念である。完全競争の逸脱=差別化(市場の個別化)こそが戦略であると考える限り、結局次の「競争」に巻き込まれるしかない現実の企業活動を捉えることは出来ない。ここでは、完全競争とは別の用語として、「競争」が定義されねばならないであろうし、当然、そこでは別の用語として「戦略」も定義されなおすことになるだろう。競争戦略論とは別に、「競争」「戦略」論が求められることになる。

そう考えると、パープル・オーシャン戦略というアイデアは面白い。このアイデアを、ブルーとレッドの間として捉えるのならば、ポーターの手のうちにある。だが、一軸で分類するのではなく、二軸で分類し、ブルーやレッドとは根本的に異なる状態としてパープルという競争状態を定式化すると考えれば、それは先の最初のポイントに触れることになる。そこで見出されるパープルな競争状態は、もはや完全競争でもなければ、その逸脱という戦略でもないだろう。

 

コミュニケーションは、要らない


押井守『コミュニケーションは、要らない』、幻冬舎新書、2012年

ずいぶんとセンセーショナルなタイトルであり、興味をそそる。コミュニケーションが大事だと言えば誰も文句は言わないだろうが、あえてそこに対抗した論理を見出そうとしているのだろう。

内容を見ればすぐにわかるように、
この本は、震災時のコミュニケーションの活性化(あるいは氾濫)、
さらにはその後の原発問題をめぐるコミュニケーションの混乱に対応して書かれている。
未曾有の状況に直面し、
自らも今こそ何かを言わねばならないという思いに駆られたのであろう。 

そのせいか、議論は個人的な主義主張が多く、
読み手に対する説得のプロセスがほとんどない。
タイトルの通り、コミュニケーションを必要としていないということなのかもしれない。
だが、本当にそうであれば書籍にする必要もないのであり、
書籍化されたという以上、
何らかのコミュニケーションへの意図が働いていたとみるしかない。
次のコミュニケーションを誘発しているのかもしれない。

 別の見方としては、
まさに映像を追求してきた著者の表現に対する固有の方法論を考慮することもできる。
映画やアニメ、更にはその土台となる物語は、
論理を必要とする文章とは異なった表現形態をとる。
主張の根拠や正当性が求められるというよりは、
むしろそうした議論は深層に隠され、その表現にこそ焦点が当てられる。

 この書籍だけで何かを判断することはできない。
映像と結びつけることが一つの方向性であろう。
その上で、コミュニケーションのあり方を問い直すことが有用であるということかもしれない。


2012年5月9日水曜日

驚きの介護民俗学


六車由実『驚きの介護民俗学 (シリーズ ケアをひらく)』医学書院、2012

以前の「神、人を喰う―人身御供の民俗学」が学術的で厳密な感じだったのに比べると、こちらは雑誌連載の内容を読みやすく束ねた内容になっている。介護施設という一見すると排除され、何も残されていない対象に目をあて、むしろそこから我々が失いかけている何かを拾いだそうとしている。

興味深いと思ったのは、「聞き書き」という作業を、一方で介護のための方法論と見なしつつ、同時に、民俗学の使命として捉えようとしているように見える点である。本文中では、前者は介護の方法論である回想法との接続や批判へとつながっている。後者は、研究や記述を行う人々の意義の再確認であり、その活動自体が、介護(という一つの現実)にもつながっていることを示している。

もちろん、ところどころで述べられているように、「聞き書き」が絶対的に介護にとって有効な方法というわけでもない。記述についても、わざわざかぎ括弧がつけられているように、「事実」との相違を指摘されることもある。けれどもそれは回想法や、それからもっと物理的な治療とて同じである。

「聞き書き」の両面戦略は、可能性であるとともに揺らぎの原因となる。学術的に読み込むには難しいかもしれない。最後に上野千鶴子などの議論との接続が試みられており、ここから次の一手が始まるのだろうと感じた。ひとまず、この本については、読みやすさを重視し、一つ一つの語りに驚くことが大事なのだろう。我々の知らない世界は、もっともっと存在している。


2012年5月7日月曜日

商業・まちづくり 口辞苑


石原武政『商業・まちづくり 口辞苑』碩学舎、2012年

新しい本を紹介したい。
ショッピングセンターやアウトレットの隆盛に比べ、シャッター通りのように衰退激しい印象を持たれがちな商店街の数々。国の政策という点で言えば、こうした「まち」の復興が重要だと考えられてきた。だが実際には、そう簡単にことは運ばない。

本書では、こうした苦労の多い「まち」や商店街に焦点を当て、キーワードの説明が行われている。いずれも日常的に聞くキーワードの数々だが、本書の売りは、そのキーワードのすべてについて、表の意味と裏の意味がある、という点にある。どんなキーワードも、表向きの意味と、実際にそのキーワードが意味しがちなもう一つの意味があるというわけである。

考えてみれば、「まちづくり」というキーワード自体が、裏と表のある言葉に違いない。
表向きは、まちづくりと言えば誰も反対のしない、社会的に求められ、国の支援のもとにある活動に違いない。
だが、実際にまちづくりに携わるのならば、
その問題の大きさや、
「まちづくり」をとりまく様々な利害関係者の存在が見えてくるだろう。

二つの意味を理解してこそ、現実は動く。
表の意味を正当性のよりどころとして、裏の形で実際には現実を動かしていくのである。
そんなきれいごとばかり言って、
といったどこかでよく聞く批判は、
一方で正しいが、ことの一面でしかない。
それは正当性の担保であり、資源なのだといえる。


インタンジブル・アセット


E.ブリュニョルフソン著 CSK訳『インタンジブル・アセット』ダイヤモンド社、2004

 90年代初頭によく知られたITパラドクス。パソコンに代表されるITの普及に伴って、多くの企業はきっと生産性が上がるはずだと考えていたわけですが、数々のマクロデータは、その期待を裏切り続けてきたわけです。ITにお金をかけているのに、成果が一向に上がらない、これがITパラドクスですね。

とはいえ、90年代中ごろに入ると、だんだんITパラドクスが解消してくる、というよう話が出てきます。この本もまた、そうした流れの本だと思います。とはいえ、この本がなかなか秀逸なのは、ITパラドクスの問題を、単なる時間差の問題として捉えるのではなく、ITの効果がでるためには、実はもっと別の場所への投資も必要になるということを示した点にあります。それが、インタンジブル・アセット、つまり見えない資産というわけです。

まあ具体的には単純です。ITをただ導入しても成果がでないだろうことはほとんど自明なわけで、実際には、それを使う人のスキルや、あるいは組織のあり方自体が変わらないといけない。だから、こうした側面にも投資がなされなければ、ITの効果はちゃんとでてこない。この本では、こうしたインタンジブル・アセットが変数として加えられることによって、生産性が、それも単純な生産性ではなくて、顧客価値まで含めた生産性!があがるとされています。

IT、情報化、あるいはインターネット、このあたりをどう考えるのかというのはなかなか難しいことで、でもちょっと考えておく必要のあることだと思います。もう少し抽象的にいえば、技術と社会の関係をどう捉えるのか。単に一方向でもなく、相互作用でもなく、もう少し時間軸を考慮できる枠組みをどう用意するか、あるいは、もっと別の選択肢があるのか、このあたりを考えるきっかけになります。
(初掲載2005.08.01)

マーケティング発想法

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セオドア・レビット 土岐坤訳『マーケティング発想法』ダイヤモンド社、1971

マーケティング界で1,2を争う著名人の一人、セオドア・レビットによるもはや古典ですな。あまりに有名すぎて、逆に読んだことがなかったわけですが、、、これはさすがに面白い。70年の段階でここまでいわれていると、その後、30年間何をやっていたのだろうと、ちょっと思ったり、思わなかったり。

レビットといえばマーケティング近視眼なんかが特に有名なわけですが、特にこの本を読んで感じたのは、もう少し全体的な、彼の社会科学的なセンスの良さ。経営本にありがちな、こうすればうまくいく、なんていう論理はまったくない。むしろ逆に、そういう論理こそが経営にとっては致命的となることが強調されているように思います。基本的に、社会ってのは塞翁が馬なわけで、これとうまく向き合う術が大事なわけです。さらにその一方で、しかしその術に関する論理はちりばめられているので、比較的読み手にとっても読みやすい。

各章ごとに面白かったのだけれど、特に「企業をすべてマーケティング・コンセプトでみたしてはならない」なんてのは大事なところかなと。マーケティングがあればすべてうまくいく、なんてことは当然ないわけで、そのあたり、どう折り合いをつけていくのか、これこそあるいは、マーケティングの発想なんだろうと思いました。
(初掲載2005.06.13)

追記
後にレビットの論文集は日本語書籍にもまとめられた。マーケティング近視眼はこちらに所収されている。

2012年5月6日日曜日

不確実性のマネジメント


カール・ワイク、キャスリーン・M・サトクリフ著 西村行功訳『不確実性のマネジメント』ダイヤモンド社、2002.

少し前の本ではありますが、ホットな話題でもあります。不確実性のマネジメント、あるいは、高信頼性組織(HRO)はいかにして可能か、といった話です。なかなか興味のあるテーマであることは間違いありません。

この本が特徴的なのは、こうした問題を取り扱うにあたり、いわゆる一般の企業ではなく、原子力発電所や航空管制システムなど、どんな微細な問題も致命的になりうるようなところを取り上げている点です。こういったところでは、しかし意外にも、高信頼性組織になっている。さて、それはなぜか?そして、それは一般企業にも持ち込めるか、といったあたりが一つのトピックになるわけです。

ひとまずの答えは簡単です。高信頼性組織では、成功体験におごることなく、絶えず失敗から学ぶ体制、さらにいえば文化を作り上げている。だから、大きな失敗が引き起こされる前に、その芽が小さいうちにうまく対処できる。この本では、その特徴を大きく5つのプロセスとしてまとめてありますから、まあそのあたりはわかりやすい。 

とはいえ、なんといってもそこはワイクですから、もう少し示唆深い話も書いてあります。このあたりは、「訳者まえがき」でうまくまとめられている気もしますが、それは予期(本文中では予想)の問題です。というのも、不測の事態が起こるということは、予期が前提となって起こるからです。予期するから、予期しない事態が生じる。予期しなければ、そもそも不測の事態はありえない。不測の事態とは、予期していたこと以外が起こることと、予期していたことが起きなかった場合を指す事態なわけです。

もちろんこれは、だから予期せず、いきあたりばったりで行けという話ではありません。ここは、ワイクの逸話で有名な山で遭難した人々の話と同じです(ティース編著『競争への挑戦』)。確かに、間違った地図であっても下山することができる。だから、地図(=すなわち予期だろう)は完璧である必要はまったくない。しかしながら、何らかの地図は依然として必要なわけです。予期が完璧である必要はない、しかし、なんらかの予期は必要なわけです。問題は、この時の予期がいかなるものでありえるのかということですが、それは予防ではなく治療であり、備えるということなのでしょう。
(初掲載2005.05.18)

追記
改めて重要な問題を提起していたものだと思う。原子力の話も書かれていた。


ポストモダン・マーケティング


スティーブン・ブラウン著 ルディー和子訳『ポストモダンマーケティング』ダイヤモンド社、2005.

お、翻訳されたんだ、と思って買ってみた一冊。。。残念ながら間違えたみたい。Stephen Brownだということで、てっきり、『postmodern marketing』 の翻訳だと思ったのに。。。(ちなみに、ずっと「ステファン」だと思ってたよ。。。)まあ、タイトルを日本向きに変えるのはよくわかるけど、ねえ。この本の原著は、『Free Gift Inside!!』。

この本は、学術書ではなくて、ブラウンがわかりやすく持論を書いた一般書だと思います。その意味において、主張もわかりやすいし、さくっと読めてしまいます。主張というのは、副題にあるとおり、マーケティングにおける「顧客志向」批判、という感じです。このあたりは、個人的には可もなく不可もなくというところでした。1、2章を読めば全体像はわかりますし、それ以降を読めば具体的なケースなどがわかります。

さてさて、この本をどう評価するか。主張そのものはよくわかります。ケースも面白いです。リーバイスの話やエジソンの話などは、知っている話とはいえ、いわれるように顧客志向、あるいは、それ以前の技術志向の視点に相対するケースだと思います。ということで、そういうことです。そういう本だと思います。それ以上にこの本から何かをとりだすということは・・・ということで、やはり、この本で一番面白いと思ったのは、最後、「全部読んだなんて信じられない」という一節(笑)、この意味を理解できるかどうか、このあたりが、「顧客志向なんて捨ててしまえ」に対する答えなんでしょう。
(初掲載2005.01.31)

追記
その後読んだ限りでは、コトラーとの往復書簡のやり取り(ハーバードビジネスレビューに所収)などで、ブラウンの狙いがよく見えるように思う。

戦略サファリ


ヘンリー・ミンツバーグ、ブルース・アルストランド、ジョセフ・ランペル 齋藤嘉則・木村充・奥澤朋美・山口あけも訳 『戦略サファリ』東洋経済新報社、1999

戦略論の系譜をさくっとレビューする上では最適の一冊。 マーケティング論でいうと、すでに入手困難ではあるものの、、、『マーケティング理論への挑戦』と同じ感じの本です。これまでの戦略論を10個のスクールとしてまとめ、その流れや特徴を辞書的な形でわかりやすくまとめてあります。

まあここから明らかなことは、この本は、戦略論を研究したい人向けの本だということです。これでもって、明日の経営の指針が決まるわけではないでしょう。というか、この本に書かれているのは、そもそもそうした経営の指針を決めるということが、実はどんなに難しいことか、それがだんだんわかってきたのだ、という研究系譜の一覧表だと思います。

個人的に一番面白いと感じたのは、上記の構成によるところの、規範的と記述的の区分です。どうやら、研究のスタイルが、どうあるべきかを問う規範的アプローチから、実際どうあるのかを問う記述的アプローチへと力点が動いてきていること、それから同時に、とはいえ戦略論においては、規範的な帰結(いわゆる実践的示唆)が常に要請されるであろうこと、このことは、この先を期待させるに十分だと感じました。論文が書けそうなので、これ以上はひとまずカットしておきます。。。
(初掲載2005.01.26)

追記
この先に進めたのかどうか、改めて問い直した次第。。。


Test

Photo

何をしているのかというと。

ずいぶんと昔、書評を書いていたことを発見しました。

考えてみれば、1997年には、ホームページを持っていた。
たわいもないサイトだったけれど、
その頃考えていたインターネットの形を、
今であれば、
もう少し今風に、
エレガントに、
実現できるのではないか。

その具体的な形はわかりませんが、まずはあがいてみること。
明日には飽きて諦めるかもしれませんが、それでも、今日だけはと思うこと。

まずはお気楽に、再開しようと、昨日ぐらいに急に思いたった次第。

今日はここまで

昔の書評をアップロードし、ひとまずレイアウトを整えていました。
この感じで少し行きます。

マーケティングの神話


石井淳蔵 著 『マーケティングの神話』岩波現代文庫、 2004.

リンゴの絵がなくなってしまったのが残念きわまりないところですが(笑)、もう「それ」は問題ではないということの現れなんだろうと勝手に思っております。いいことですよね。

いうまでもなく、オリジナルは1993年なわけで、それから10年経ってもなお通用するマーケティング本というのは、まあ学術本は当然息が長いはずですが、なかなかなことだと思います。あるいは、マーケターはもちろん研究者も、その多くが、この時点の認識で止まっている可能性があるということも意味しているのかもしれません。ようするに、この本がこうして再登場する背景には、まだまだ、時代がこの本に追いついていないと(笑)…いいすぎかなぁ。

中身についても、いまさらとやかく言うこともないわけですが、10年経って読んで思うことは(といっても、僕が最初にこれを読んだのは6、7年前かな)、ここからよく先に進めたなぁということ。マーケティングという活動が、決して巨大な歯車でできた機械ではなくて、もっとかなりぐちゃぐちゃしたものだと言ったまでは誰でも理解できそうだけれど、ではそこからマーケティングがどうあればいいのかを理論的に問うことができた本はほとんどない、かもしれない。

そういう意味では、この本の評価は、99年の『ブランド』や、04年の『営業が変わる』を踏まえないとよくわからないだろうし、逆にこれらの本も、ここからの連続として捉えないとその意味は極小的に捉えられてしまうだろう。単なるブランド論、単なる営業論という感じで。これらはどれも一つの答えなのですよ、きっと。
(初掲載2004.12.20)

追記
偉そうな書評を書いていた自分に反省する。わからないこともないが、今ならば,もう少し丁寧に議論できるかもしれない。

<意味>への抗い


北田暁大 『<意味>への抗い』せりか書房、 2004

だいぶ前から、広告論関連で知っていたのですが、ようやく、意味がとれそうな予感がした一冊です。まあ、そういう意味をとるということについて、抗っている本なわけですが。。。

分析し、解釈することに慣れてしまっている我々にとって、その解釈するということの限界を知るということは、実はそれほど簡単なことではないと思います。ルールに内属するものは、そのルールを知ることができないという感じでしょうか。そういう意味で、ようやく、意味に抗うことの意味が(笑)、少しわかった気がします。

情報と伝達については、マクルーハン的なメッセージとメディアを起点としつつもそれを越える論理を用意する。伝達(メディア)が大事なのだけれども、しかし、伝達がメッセージとなるわけではない。あくまで、情報と伝達の差異が重要なわけです。さらにいえば、解釈による意味の確定を待って、今度はそこからメディアのメッセージ性が確定すると、そういうことでしょう。解釈が先にあるのでもなく、メッセージとしてのメディアが先にあるわけでもない。先にあるのは情報と伝達の差異であり、しかし、結局そうした時間認識は倒錯してしまうと。すなわち、多くの場合、先に解釈(可能性)が準備されたり、メディアが実体化してしまったりと、捉え方が逆転してしまう。

映画評論や、特に音楽評論も面白いところです。分析し、解釈するタイプとしては、どうしても特に音楽は歌詞分析になってしまう。でもまあ、音楽ってのは一体としての音がメインであって、歌詞自体はメインではないはず。これはどうしたらいいのだろうと。このあたり、マーク・ポスターにもあった話で、せっかく一体感をうりにするオーケストラを、専門家はそれぞれの音に分解し、それぞれを評価してしまう。ではどういう評論があるのかという点では、なかなか難しいところかなと。洋楽はもとより、日本のポップでも、時に先鋭的な曲になると、歌詞がいわゆる歌詞として意味を持たないようにしてある。あのあたりをどう評価するかということが、1つの解決策なのかなぁ。

もっといえば、僕はラップ系があまり好きでないのだけれど、その理由って、あれ、無駄に意味が前面に出すぎるからだろうなぁと思ったり。駄洒落みたいで嫌なんだなぁ。と、まあ、そんなとりとめのないことを考えるに至った一冊でした。
(初掲載2004.12.13)

追記
情報と伝達の差異の意味がわかっていなかった当時。安易に解釈と言ってしまっていることに問題がある。反省。

行為の経営学


沼上幹 著 『行為の経営学』白桃書房、 2000

いうまでもなく経営学における革新的著作ということで、あるいは、少なからず方法論研究の問題を共有するという点において重要な本かなと思っております。難しい本ではありますが、しかしそれでも、かなりわかりやすいところがさすがです。

方法論研究としては、変数のシステムと行為のシステムを比較して捉えつつ、両者の接合を図るという点において、王道を行く論理を展開しているように感じます。このあたりは、研究者としてはわかりやすいところではないでしょうか。

しかしまあ、この本でオリジナルなのは、両者の接合に際して「意図せざる結果」を中心においているというところでしょう。行為の帰結として生じる意図せざる結果をどのように理解し、改めて行為に取り込むのかという点において、経営の本質が存在すると同時に、変数のシステムと行為のシステムを接合できる中心が成立するというわけです。

さてさて、そして最終的に導かれるのが、間接経営戦略ということになります。意図せざる結果を踏まえた戦略ということでしょうか。ミシュランなんかの例が挙げられています。これはこれでわかりやすいし、やはりなるほどです。
(初掲載2004.11.16)

追記
改めて読むと、実に多くの議論が組み込まれていることがわかる。当時はわからなかったが、ゲーム理論しかり、ギデンズしかり、奥が深い。