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2012年8月6日月曜日

われらゲームの世代33

再びドラゴンクエストに戻ろう

ずいぶんと寄り道をしてしまった。大きなテーマはドラゴンクエストだった。きっとゲド戦記との親和性もどこかにあるに違いないが、それはまた思いつくまでとっておこう。

ドラゴンクエストを自分で遊んだのは発売からずいぶん経ってからだったが、発売日そうそうに購入してもらって遊んだのはドラクエ2からである。自分で買いにいく力はないから、ここは祖父に頼むしかない。行きつけのおもちゃ屋さんで、予約ランキングを上げてもらって購入してくれたらしい。ありがたい限りである。

そういえば、もしかしたらそれは2ではなく3だったかもしれないが、宅急便で送られてきたことを覚えている。ヤマトだったか佐川だったかは知らない。けれども、そうして配送してくれる仕組みが、いつの間にかできあがっていたのだろう。ただ、今のように翌日配送というわけでもなかったような気がする。もう一日位は必要だったのではないだろうか。

ヤマトの宅配便システムと言えば、『小倉昌男 経営学』が印象深い。ヤマトの今の仕組みを作ったその人である。彼が見出したのは、効率よく配送するための考え方だった。アメリカにたまたま旅行したときに見たという区画割りの方法がそれだ。

ありがとうとしかいいようがない。たしかに、彼がそれを日本に持ち込まなくても、きっと誰かがそれを見出しただろう。彼でなかった、かもしれない。それはいずれ発見されるべき真理であり、たまたま、僕たちの歴史の中ではそのお役が彼に回ってきたにすぎない。だが、その発見は重くみられるべきである。僕たちの歴史の中では、他の誰でもなく、彼がそれを見出したのである。

もちろん、その可能性を彼と一体化させるのならば、それは歴史を必然化させ、単純な一本道を描かせることになるだろう。『存在論的、郵便的』には次のように書かれていたように思う。ハンスは、死なくてもよかったかもしれない(だが、アウシュビッツで死んでしまった)。それこそが悲劇なのだ。ピタゴラスは、三平方の定理を発見しなかったかもしれない。だからこそ、その発見は奇跡なのだ。偶然性と必然性をほとんどイコールで結びつける危うさにこそ、僕たちは注目しなくてはならない。

結局まだゲームに戻れないままだが、この奇跡こそ、僕が歴史を振り返る理由であり、未来に向けた可能性を見出そうとする理由である。僕があのとき体験した事実は、もしそれに価値があるとすれば、それはそうでなかった可能性があるからなのだ。これは希少性の問題とは少し違うように感じる。1個しかないダイヤモンドを100人が欲しがっているという話ではなく,1人の死や歴史というものが、もっと他でもありえたという過去に開かれる可能性、同時に未来の可能性を提示しているのである。

小倉昌男 経営学存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて幾何学の起源