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2012年6月7日木曜日

社会は情報化の夢を見る


佐藤俊樹『社会は情報化の夢を見る---[新世紀版]ノイマンの夢・近代の欲望 (河出文庫)』、2010

1996年に出版された『ノイマンの夢・近代の欲望』の増補改訂版である。前半部は基本的に1996年に書かれた内容を踏襲しており、後半部に特に大きな増補がなされている。本書でも述べられているように、情報社会論は、この15年近くの間にそれほど多くは変わってこなかったようだ。

今でも、技術は社会を変えると言われる。ツイッターで革命が起きたという話もある。けれども、それは正しくない(この正しくなさは、当人たちがどう思っているか、という事実レベルの話ではなく、論理レベルの話である)。技術に先立って、その技術を意味付けする社会や、目指すべき社会の未来像が存在していなければならないからである。それは循環論法に陥っており、本当に問うべき問題を見失っている。

同様の論理は、技術が個人を変える、技術が組織を変えるという点についても同様であるとされる。特に個人のくだりは興味深い。メディアが近代の個人を作り出したのではなく、近代の個人像の確立こそが、書くメディアを優位な地位に導くことになったという。なるほど、そうかもしれない(ただ一方で、個人的には、こうして書くことを通じて、「僕」はなんとか確立できていることも確かなように思う)。

こうして技術が社会を変えるという論理は、結局のところ、技術が変えてくれると考えられてきた近代産業社会そのものが自らの存続のために作り出してきた論理であったことがみいだされる。自らを駆動し続ける近代産業社会は、技術が社会を変えるという中身のない主張を掲げることを通じて、新しい技術、新しい社会を呼び込んで成長してきたというわけである。

と、ここまではわかったつもりだったが、追加された補論については一つ理解が難しいところがあった。本書が最も言いたかったという、技術と社会を同時に語る魔法の言葉に対する批判である。具体的には、これで技術も社会も変わるという「ウェブ2.0」や「コード」「データベース」が該当するという。

これらの魔法の言葉が問題であることは繰り返し述べられてきたことはわかるが、どうしてこれが技術と社会を同時に語ることを意味し、それを問題と言い換える必要があるのかわからなかった。前半の議論では、これらは技術の側に位置づけられていたように感じる。あるいは、これらが近代産業社会が生み出す中身のない言葉であったとしても、問題は「同時に語っている」ということではないような気がするし、そもそもそれは止めたり変えたりすることができるような代物でもない気がする。さらにいって、これが本書が言うテクノロジーと社会の同形性のことをいっているのだとしても、それは一つの事実としてあるということだったように思うので、それを批判する(同形ではないという?)方法があり得るのかはよくわからなかった。

引き続きこの問題は、社会を(技術ベースの言葉に置き換えることで)単純化し、蜃気楼の議論を作ってしまうとされる。だから、同時に語る魔法の言葉は使うべきではないというわけだが、さて、誰に対して禁止を求めているのだろうか。研究者だろうか、それとも、僕たち全ての人間にだろうか。前者について言えば、彼等はこうした魔法の言葉が、現実にどのように使われているのかを調べればいいようにみえる。後者について言えば、そういう主張が可能なのかどうか、よくわからない。