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2012年7月17日火曜日

検察の正義

検察の正義 (ちくま新書)
郷原信郎『検察の正義 (ちくま新書)』、2009

近年、ライブドア事件や小沢事件を通じて、検察や司法が問題視され、批判されることも多い。しかし、批判するのは恐れ多いという感覚の人も、実際は少なくない。検察に目を付けられること自体、既に何らかの負い目がある筈だ(お前も悪じゃのう、という悪代官と悪徳商人)と考えるのだろう。「火のないところに煙は立たない」という慣用句で、検察批判を批判する人もいる。

この本は、これまでの検察や司法が、なぜ一般人とは別世界の正義の砦であり得たのか、明快に説明してくれる。そして、そこから、なぜこの今、突然のように検察や司法が批判の対象となり、しかも対応が迷走しているのか、よく見えてくるように思う。

「普通の人や普通の企業が社会内で起こす問題を解決するのではなく、社会の外縁部で起きる特殊な問題を、特殊な方法で解決するというのが、日本の司法だった。」と著者は書いている。これまで司法は、主に殺人や放火など、社会の外縁部で起きる非日常的な世界の問題を処理してきた。社会の中心部の問題は、司法とは別の形で解決していたのだと。こうした形で、これまではうまく回ってきたのだ。

それが、大きく変わりつつある。司法が、社会の中心部の問題に関わらざるを得なくなった。その例として、著者は犯罪被害者・遺族との関係や、政治・経済関係の問題を取り上げている。90年代以降、犯罪被害者・遺族は犯罪被害者基本法などによって、次第に刑事司法における当事者的な立場が認められるようになった。被害者・遺族が、刑事司法の領域に直接入り込んでくるようになった。又、特捜検察が扱ってきた政治家、官僚の汚職摘発は、政治家の活動変化に伴い、悪代官ばりの贈収賄で立件することが困難になった。更に、独占禁止法や金融商品取引法など、経済活動に関するルールに関連して、制裁を科すことが必要になった。

こうした急激な変化に、司法が対応できずに今や迷走している。社会の中心部の問題については、殺人や放火などと異なり、「検察の正義」によって処理することが困難である。社会の中心部に関わるライブドア事件や小沢事件などの場合では、強制捜査や起訴自体により、重大な社会的、経済的、政治的影響が発生した。「悪者」を排除したり更正させる場合と異なり、検察が正義を独占して話を完結させるには、話が複雑すぎるのだ。

著者は、検事を20年以上勤め、東京地検特捜部なども歴任。その体験を踏まえて、「検察の正義」が通用しなくなりつつある現状を分析している。又、著者の個人的なキャリアも書かれていて興味深い。最終章には、長崎地検に次席検事として勤務した時の体験が書かれている。「長崎の奇跡」と題されたこの章では、今後の検察のあり方に対する展望が語られている。この章は、検察に限らず一般の組織運営においても十分有用な展望だと思い、共感を覚えた。


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