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2012年7月25日水曜日

われらゲームの世代25

ドラゴンクエスト

状況はわかった。ドラクエもFFも何かしら時代の象徴であり、それは僕たちを超えて、当時の社会や経済に直接結びついていた。当時の僕たちは、それを知らずに、というかそんなこととは無関係に、ゲームに熱中していた。僕たちの記憶を通じて、社会や経済を問い直すことが出来るだろうか。遡ろう。

初代ドラゴンクエストがいつ発売されたのか、実は、よく知らない。wikiでは1986年とあるから、スーパーマリオブラザーズ(1985年)が出た後ということになる。少なくとも、僕はこのゲームを発売当日に買おうとしたり、あるいは、最初から欲しいと思っていたわけではなかった。

最初にこのゲームを見たのは、もう名前を覚えていない友人の(松井君か、松下君か、そんな名前だった気がする)、二つぐらい向こうの家に住んでいた上級生が、このゲームを遊んでいたのを見たときだった。僕は3年生か4年生の頃だったと思う。その後草を取りにいったような記憶があるから、春先から夏にかけてのことだろう。その友人は、途中から引っ越してきて僕たちのクラスに入ったはずだ。

今「草を取りにいく」と書いてみて、少し驚いた。大人になってしまえば当然草を取りにいく機会もないだろうが、子供の時代とはいえ、草を取りにいくとはどういう時代だったのだろうか。考えてみれば、春先にはいつもつくしを探しにいったものだったし、四葉のクローバー探しには日々熱中していた。隣の空き地は、突然変異なのだろうかやたらに四葉のクローバーが生成しており、八葉ぐらいあった気がする。そう考えてみると、ゲームのウエイトはそんなに大きくなかったのかもしれない。ゲームの世代と言いながら、それからゲームを通じて過去を語りながら、一方でゲームとは無関係の記憶もたくさん残っている。ある意味デフォルメされているのだろう。こうした曖昧な記憶のあり方は、ずいぶんとゲーム的、といえるような気もする。

いずれにせよゲームの話だった。はじめて見たドラゴンクエストについて、その画面をとても印象的に覚えている。当時は全く意味が分かっていなかったけれど、その上級生は、まさに竜王と対峙していた。そして、竜王の誘惑にイエスと答えたのだった。きっと何度もゲームをしていて、そこでの選択が何をもたらすのか知りたかったのだろう。

竜王の城にたどり着き、最後のボスである竜王と相対したとき、竜王は主人公に問う。「どうだ、私の仲間になるのならば、この世界の半分をくれてやろう。」通常はノーと答え、そこから竜王との戦いが始まるのだが、イエスと答えることもできる。この場合、一瞬主人公だけが存在する世界が示され、直ちに画面は暗転する。まもなく主人公はゲーム最初のラダトームの城に戻されている。王からは何をやっているのだと叱咤され、コマンドを開くと、レベルは1に戻されている。竜王に騙されたのだ。

ドラゴンクエスト系のRPGは、長らく一本調子の会話が当然だった。例えば、仲間にしてくださいよ、というキャラクターに対し、「はい」と「いいえ」のどちらも選択できるものの、「いいえ」と選択する限り、会話はループする。「私を仲間にしてください」→「はい・いいえ」→「いいえ」→「そんなことを言わずに、私を仲間にしてください」→「はい・いいえ」→「いいえ」→「そんなことを言わずに・・・」以下省略。この辺りがストーリーの一本道とも相まってよく批判の対象だったわけだが、しかし、例外的な設定も最初からあったということになる。


予定調和 定本 物語消費論 (角川文庫)