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2012年7月9日月曜日

われらゲームの世代14

ここまでの「発見」

さて、とくに水滸伝からはじめたが、そんなに理由があったわけでもない。ゲームの思い出話をしてみようと思ったとき、最初に思い出したのがたまたま水滸伝だったというだけである。もちろん、それにはそれなりの理由があったことも確かである。今までつらつら書いてきた内容は、その理由に他ならない。

このあたりで、一度「発見」を整理してみよう。ここで発見というのは、大きく2つにわけられる。一つは、過去を思い出したという意味での発見であり、そういえばこんなこともあったな、あんなこともあったなと思い出し、それはどうしてだったのだろうと考えることで、それぞれの出来事がつながりを持ったということである。もう一つの発見は、単なる過去の問題ではなく、今と結びつき、もしかすると未来に向けた新しい一手を提示するかもしれないという発見である。一つ目の発見は埋もれていた過去を思い出す作業ともいえるから、ひとまず過去の再発見としておこう。二つ目の発見はいわゆる発見であり、未来につながりそうだから、未来への発見としてみよう。

過去の再発見はそんなに見直す必要はない。それ自体は僕の固有史であって、そんなに意味のあるものではないからだ。大事なのは未来への発見の方である。例えば、所々意識的に書いてみたけれど、かつての僕のゲームの記憶は、今からみれば、テレビゲーム産業の発展と強く結びついている。過去をみても未来はわからないというけれど、もしかするとそうでもないかもしれない。過去は忘れられ、あるいは少し形を変えながら、常に反復されているような気もしてきた。

あまり一般化してしまうと面白さがなくなりそうだが、産業にはライフサイクルがあると考えられている。中古店などが生まれてきた1980年代後半は、補完産業が生まれてきたという意味では、すでにゲーム機市場が成熟期に入りつつあったことを示している。だが後の僕たちは知っているように、ゲーム機市場はここから更なる発展を遂げる。中古店のような産業だけではなく、やがて進行しつつあったパソコン市場とも結びついていったし、日本全体の市場構造の変化として、メーカーと流通のパワー関係は変化していった。今であればグローバル化という話だって考えられる。

とすれば、産業のライフサイクルは、産業という固定的な枠組みに固有というよりはずいぶんと流動的であったり、多層的であることがみえてくる。特定業界に所属している人たちは、しばしばうちの産業は成熟産業で、といってみたり、衰退産業でといってみたりする。しかし、もし本当にそう思っているのならば、その人はすでに自分を取り巻く環境の理解に失敗しているということになるだろう。

さらに考えてみると、最近の歴女ブームであったり、歴史の積極的読み替えによるパロディ的ストーリーの形成(三国志や信長の野望が女性を主役にして構成されている)は、僕たちが過去に経験してきたゲームの世界の一つのifであることもわかる気がする。三国無双のような歴史格闘ゲームで意味もなく女性キャラが前面に出る(現実にそうだったとはあまり思えない)ことも、ようするにifなのであり、そうした世界が今日形成されている背景には、かつて僕たちが光栄のゲームを支持したということに由来しているのだろう。

そうであるのならば、未来は過去の再発見、あるいはifとして展開されているようにもみえてくる。しかも、未来への発見という点では、過去の再発見は、特にインターネットという現代技術の助けを得ることで質と量を増している。例えば水滸伝に関わる新しい情報の発見などは、直接的に次の一手に関わってくるはずだ。自分の過去を思い出すことで、あるいは思い出そうとしてあれやこれや画策することで、僕たちは過去を再発見するのみならず、未来への発見を可能にしているわけだ。

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