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2012年5月6日日曜日

<意味>への抗い


北田暁大 『<意味>への抗い』せりか書房、 2004

だいぶ前から、広告論関連で知っていたのですが、ようやく、意味がとれそうな予感がした一冊です。まあ、そういう意味をとるということについて、抗っている本なわけですが。。。

分析し、解釈することに慣れてしまっている我々にとって、その解釈するということの限界を知るということは、実はそれほど簡単なことではないと思います。ルールに内属するものは、そのルールを知ることができないという感じでしょうか。そういう意味で、ようやく、意味に抗うことの意味が(笑)、少しわかった気がします。

情報と伝達については、マクルーハン的なメッセージとメディアを起点としつつもそれを越える論理を用意する。伝達(メディア)が大事なのだけれども、しかし、伝達がメッセージとなるわけではない。あくまで、情報と伝達の差異が重要なわけです。さらにいえば、解釈による意味の確定を待って、今度はそこからメディアのメッセージ性が確定すると、そういうことでしょう。解釈が先にあるのでもなく、メッセージとしてのメディアが先にあるわけでもない。先にあるのは情報と伝達の差異であり、しかし、結局そうした時間認識は倒錯してしまうと。すなわち、多くの場合、先に解釈(可能性)が準備されたり、メディアが実体化してしまったりと、捉え方が逆転してしまう。

映画評論や、特に音楽評論も面白いところです。分析し、解釈するタイプとしては、どうしても特に音楽は歌詞分析になってしまう。でもまあ、音楽ってのは一体としての音がメインであって、歌詞自体はメインではないはず。これはどうしたらいいのだろうと。このあたり、マーク・ポスターにもあった話で、せっかく一体感をうりにするオーケストラを、専門家はそれぞれの音に分解し、それぞれを評価してしまう。ではどういう評論があるのかという点では、なかなか難しいところかなと。洋楽はもとより、日本のポップでも、時に先鋭的な曲になると、歌詞がいわゆる歌詞として意味を持たないようにしてある。あのあたりをどう評価するかということが、1つの解決策なのかなぁ。

もっといえば、僕はラップ系があまり好きでないのだけれど、その理由って、あれ、無駄に意味が前面に出すぎるからだろうなぁと思ったり。駄洒落みたいで嫌なんだなぁ。と、まあ、そんなとりとめのないことを考えるに至った一冊でした。
(初掲載2004.12.13)

追記
情報と伝達の差異の意味がわかっていなかった当時。安易に解釈と言ってしまっていることに問題がある。反省。