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2015年12月1日火曜日

國分功一郎『近代政治哲学-自然・主権・行政-』


國分功一郎『近代政治哲学-自然・主権・行政-』ちくま新書、2015。  

 この本では、ボダン、ホッブズ、スピノザ、ロック、ルソー、ヒューム、カントの政治哲学が解説されている。しかし、単なる教科書的な解説ではない。予め政治哲学という分野を前提して、そこに安住するわけにはいかない、と著者は冒頭で述べている。現在の政治体制は、近代政治哲学によって構想された。今日の体制に欠点があるなら、その欠点は体制を支える概念の中にも見いだせる。そこで、近代政治哲学者たちの概念を、改めて検討しようというのである。古典の読み方として、これは大切な視点だと思う。

 一方で、この本の中身は、著者が行った大学での授業が基になっているらしい。その際、受講者は初年次の学生であったとのことで、特に前提知識が要求されていない。そのため、政治哲学の入門書ともなっていて、大変読みやすい。基礎知識を得ながら、同時に現在の政治体制への視点も持てることで、政治哲学の入門書としても、大変役立つだろうと感じた。大学生だけでなく、間もなく有権者となる高校生にも、副読本として適切だ。

 取り上げられている政治哲学の概念は、自然、主権、行政などであり、それがこの本のサブタイトルになっている。そこで、自然概念について、少し取り上げてみよう。社会契約説では、自然状態の想定が話の出発点となる。ホッブズが、自然状態を「万人の万人に対する争い」と考えたことはよく知られている。ホッブズについての教科書的な説明だと、人々は争いが続く自然状態では生きられないから、自然権を放棄して代表者に委ね、国家を作ったとされる。その結果、一旦委ねた自然権を取り戻すことは出来ないから、ホッブズ理論は絶対王制を支持する理論となった、とされる。絶対王制の国王は、まさにホッブズの著書のタイトル通り、リヴァイアサン(神話上の怪物)だというわけだ。

 しかし、著者によれば、ホッブズの言う自然権は、好きなことを好きなようになし得る自由のことであった。自然権とは、「権利」という語感が与える印象とは異なり、自由という事実そのものを指している、というのである。すると、自然権は、物のように棄て去ることは出来ない。ホッブズの言う自然権の放棄lay downとは、実は自制を意味していると著者は考える。法によって禁じられた行為を我々が普通やらないのは、それが罰せられるからだ。しかし、罰せられるとはいえ、やろうと思えば出来るのである。そこから、著者は自然権は放棄できない、と話を進める。我々は、常に自然状態を、生きているからだ。もっとも、ホッブズの「リヴァイアサン」には、そこまでは書いていない。しかし、ホッブズの記述を辿ると、十分、成立する議論だと思う。ホッブズの自然概念は更にスピノザに引き継がれて、人々は自然権を適度に自制しながら社会の中で生きる、とされた。

 主権や行政についても、教科書的な解説から一歩進んだ斬新な視点が、政治哲学者たちの記述から取り出されている。主権について、執行権(行政権)が大きな影響を持つことは、スピノザ、ルソー、カントが特に問題視していた。例えばルソーの一般意志は、まさにその問題に関わる。著者に言わせれば、ルソーが直接民主制を主張したという通説は、見当外れだ。そして、最終的に、民主制という概念も、問題になる。実際、カントによれば、「言葉の本来の意味で民主制と呼ばれる形態は必然的に専制である」。カントの議論を追えば、確かに民主制は専制になる他ないと思われる。その一方、今日の議会制民主主義は、カントの分類では「共和的な貴族制」になる。では今日、我々が自明視している民主主義とは、一体何なのか。近代政治哲学を再検討する意味は、まさにそこにあるのだろう。