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2015年2月9日月曜日

音楽編 夜が明けたら

大学生だった頃好きだった曲の一つに「夜明けまえ」がある。スガシカオの名曲だと思うけれど、夜明け前というある意味始まりを予感させる瞬間と、だからといって何が起きるわけでもない現実がうまく重ね合わせられていた。

「僕らの銃声は ヤミをつらぬいて 夜明けまで 届きそうなのに
風がただ ふきつけるだけ」



曲が一瞬盛り上がってメジャーコード?になるにも関わらず、そのあと失速するような感覚がとても印象深かった。と同時に、何度もリフレインされながら、最後はまあそれでも良いのかもしれないと妙に納得してしまう感覚があり、今聞いても、これはどういうことなのだろうかと自分自身の感覚が気になってしまう。

歌詞の中にある、おもちゃの手錠を外そうとして逆にきつくしまってしまったという一節が示すのだと思うけれど、何かやろうとしてうまくいかなかったり、むしろ悪い方向に動くということはよくある。夜明けをみつけようとして、みつからなかったり、むしろヤミの中なのだから、どこにいるのかわからなくなってしまうこともある。でも、そういうことが現実なのだということかなと思っていた。

そんな中で、たまたま、youtubeできのこ帝国の「夜が明けたら」を聞いた。誰かのコメントで「渦になる」がいいとあったので聞いていた次第だが、一回聞いて、この「夜明けまえ」を思い出したのだった。

きのこ帝国の曲は、正直なところあまり知らない。聞いていると、accidmanを連想させる。(改めて聞いてみると、少し違う気もしてきた)。いずれにせよ女性ボーカルのせいか、もう少し線の細さというか、曲調がポップのような印象を受ける。

「思い出しても仕方のないこと 家に帰ろう夜が明けたら」

 

全体的に憂鬱な感じの曲風だが、それでもスガシカオよりは、夜明けに期待しているように感じる。その期待は、曲の最後にテンポが一気に加速することに象徴されている。結局その先に失速が待っているのかもしれないけれど、それでも、転調する感覚はある。

多分どちらの曲にしても、夜明けだからといって何か革命が起こるわけではない。どちらも、そんなに楽観的ではない。でも、でも、でも、夜が明けたら、何か起きるような気がする。そういう根拠のない高揚感と、そして結局何も変わらないのだけれど、それでも、ほんの少し、例えば気持ちが晴れるとか、もう一回やってみようかなと思うとか、そういう少しの変化が生まれる、そういう小さな変化を、きのこ帝国は肯定しているようにみえる。一方で、スガシカオの方は、変化すらない、繰り返し、それ自体を肯定しようとしているようにみえる。