しかし、憂いのダーティンサーティンなのだ。そこにいるのは、やっぱり何処かくたびれたサラリーマンなのかもしれない。それは悲哀の対象でもあるが、その悲哀は、人々を引きつける新しい魅力でもある。まっすぐに生きていられた時代が終わり、現実はなかなか厳しいなとようやく気づくようになり、だからといってもう仕事を辞めるわけにもいかず、このままやっていくしかないという現実に直面する。その悲哀はしかし覚悟と裏腹であり、輝く男のようにちょっとずつ生きることもできるし、思い切って服部になることもできる。それは僕たちの選択に委ねられている。
あのころ、僕たちは服部に憧れていたのだろうか。あるいは、彼の魅力を知ろうとしていたのだろうか。カラオケでよく歌った記憶はあるが、その内容について深く考えた記憶はない。多分、何も考えずに歌っていた。ただ楽しかったということだろう。けれども、今思い直せば、あの時代はノスタルジアであるとともに、僕たちはまさにその年になっているということだ。
そういえば、ひげとボインなんて曲もあった。出世と恋愛の板挟みになるといったようなイメージだが、どちらにも進めない。突き抜けてしまえば、多分どちらもついてくるのだろうと思う。けれども、手前で止まっている限り、どちらにも手が届かない。そんな感じだろうか。
そんなことを考えていると、やっぱり僕は服部にはなれていない。むしろ、理不尽な社会や会社を歌う大迷惑の方があっている。どうしてといわれても困るのだが、当時は、何となく歌いやすかった。出だしのシュビドゥバーの意味もよく分らないが、サラリーマンが転勤させられて困るというストーリーはよくわかる。歌詞に僕はカンイチ、君がオミヤとか入っていて、何だそれはと思った。当時は東京ラブストーリーにそんな名前の主人公がいたから、その話かなと思っていたが、考えてみればそうではなくて金色夜叉の貫一とお宮なのだろう。
金色夜叉は今も読んだことはないけれど、ストーリーは何となく知っている。便利な世の中で、ネットでみればあらすじはすぐわかる。これも未完だったらしい。とはいえ、以前紹介した吉川英治の水滸伝が梁山泊完成の最大のポイントで終わっていたのに対し、こちらはどうも悲劇のまっただ中というところで終わっているようだ。比べるのも変な話だが、しかし未完はいろいろとその後の想像を可能にするともいえる。