ラベル

2014年1月27日月曜日

社会の思考

社会の思考―リスクと監視と個人化
三上剛史『社会の思考―リスクと監視と個人化』学文社、2010年

問題は、個人と社会の関係である。この本では、個人と社会が結びついているという従来の発想を批判し、個人と社会は切れているという観点を強調している。読んでみて、私自身なるほどとまずは納得した。が、自分の言葉ではうまく表現しにくい。個人と社会は、普通セットで考えられているから、切れているというイメージが、多分掴みにくいためだろう。又、個人と社会の関係というと、まずは抽象的で観念的という感じがする。しかし読み進むと、ここでの議論が私たちの生活と深く絡んでいることが分かり、その重要性や面白さが理解出来た。著者は、個人と社会は切れていて別の存在であり、更に対等の存在だ、とまで言う。それなら、人の生き方だって随分変わって来るのではないか

普通に考えてみると、個人と社会のイメージは、個人を社会が包み込んでいる、というものだ。自分→家族→学校→組織→国家、と個人は様々な形で社会に包摂されているようにみえる。そして、それを前提にして、人は関わり合ってきたように思う。しかし、このイメージを引きずることは、最早出来ない、というのがこの本の主張である。こうした意味での社会(近代的な社会のイメージ)は、最早終わったのだというのだ。その兆候として挙げられるのが、福祉国家の危機とネオリベラリズムの進展、連帯意識の希薄化、公共性概念の曖昧化、格差社会化、リスク社会の進行などであり、関連して進行する監視社会や管理社会の形成、更に個人化の進行である。リスクに関して言えば、現代社会は、原発事故、残留農薬、新型インフルエンザなど新手のリスクに溢れており、更に保険制度や年金制度、更には進学、就職、結婚など、生活すること自体がリスクを生んでいる。

この時、これまでの社会観・個人観を転換する必要があるというのが、著者の見立てだ。では、個人が社会の成員だというイメージがもう無効だとして、社会とは何だろうか。著者の考えでは、現代における社会運営のための安定した枠組み、つまり複雑に分化した政治・経済・法・教育などの機能システムがあること、それらが個人の側の自由な選択を許容しつつ一定の手続きや使用すべきメディアの指定があること、社会があるとはそうしたことだと言う。一方、個人についても又、新たな特徴が現れていると言う。現代における個人は、複雑性と差異が特徴であり、多様で状況的に流動化していて、常に再帰的に自己をモニターし、自分自身を編集し続ける。その一方、流動化にも関わらず、より強烈な自己意識とナルシズムを持つ。自分が自分であることの根拠が自分自身にあり、自らの判断や選択の根拠も自分自身にあるとされる。これを、著者は個人化の進行と捉えている。

実は、社会学理論において、ルーマンが、既に30年も前にこの新たな社会観・個人観を提示している。著者は、個人と社会が切れている、という説明として、ルーマン理論を紹介している。ルーマン理論では、社会と個人は、構成原理が異なる。社会とは各人が外に向けて発したコミュニケーションの連鎖から成り立っている。一方、個人は意識システムであり、それぞれ独立していて、いったん成立すると他者からの影響も自分のフィルターを通すことになり、自分の意識が直接に他者の意識と繋がることはない。

社会観・個人観が、大きく変わりつつあることはよく分かる。しかし、私自身を含めて従来の理解がまだ強く残っている。それ自体が、新たなリスクと関係があるのだろう。又、ルーマン理論は社会理論であって、個人の話は僅かしかない。個人に関する議論は、まだ萌芽的段階と著者も認めている。新たな個人研究が、今や強く求められていると思う。

社会の芸術 〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス) 社会構造とゼマンティク 3 (叢書・ウニベルシタス) 社会の政治 (叢書・ウニベニシタス)