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2014年9月1日月曜日

白井聡「永続敗戦論-戦後日本の核心-」

永続敗戦論――戦後日本の核心 (atプラス叢書04)
白井聡『永続敗戦論――戦後日本の核心 (atプラス叢書04)』太田出版、2013

 言葉や概念の意味を吟味したり変えてみれば、違ったものが見えてくる。特に新しい事実を提出しなくても、枠組みを変えれば、既存の事柄を用いて全く別の光景を目にすることになる。この本は、まさにその見本のようだと思う。実際、この本で著者が提案しているのは、これまでの「戦後」という概念の吟味と内容変更である。著者の指摘に拠れば、「戦後」という概念は実は国民の認識と感覚を拘束してきた牢獄だった。それを破るには、自覚的で知的な努力が必要だとされる。

 この本を読み、私はこれまで抱いていた疑問が、いくつも解消したように思う。例えば、なぜ、戦後70年近くも経つのに、保守政権はずっと戦後は終わったとか戦後レジームからの脱却とか言い続けるのか。なぜ、日本の平和勢力は、安全保障問題を正面から取り上げないのか。又、なぜ、日本では原爆や空襲による被害は、あたかも避けがたい自然災害のように語られるのか、など。しかし、一方でこれまでの戦後の概念を破るのは、確かに知的な努力が必要だと痛感した。話を簡単にまとめるのが、何とも難しいのである。

 内容を、一部取り上げてみよう。戦後を考えるのに、この本では、国体や永続敗戦という概念が取り上げられる。まず、国体は、敗戦にもかかわらず、戦後も生き残ったのだという。そう言えば、戦中の指導層が、ポツダム宣言受諾の際に強く拘ったのが国体の護持であった。著者に拠れば、戦後の国体は、この本のタイトルになっている永続敗戦であるという。この永続敗戦という概念を用いた説明は、以下のように展開する。

 まず、明治憲法下の国体が、顕教(大衆向け)と密教(支配エリート向け)の二重性を持っていたことは、以前から指摘されていた。大衆向けには、天皇は神聖にして不可侵の現人神であるとされる。一方、権力を運用する側では、天皇に実権は持たせずに、立憲君主国家として政治を動かした。しかし大正から昭和にかけて、顕教部分が密教部分を浸食する。エリートたちが、統帥権干犯問題にみられるように、大衆向けの方便の論理に自ら絡みとられていったのである。美濃部の天皇機関説が否定されたのも、その一環である。顕教が密教を呑み込んだ時に、この体制は崩壊するしかなかった。国体の持つ、二重性という根本原理が失われたためである。

 一方、戦後の国体でも顕教と密教の二重性がみられる。アメリカの世界戦略の都合から、日本では戦前の指導層が、戦後も存続を許された。彼らの、敗戦や原爆などの責任回避のために、大衆向けの顕教部分では、敗戦の意味が可能な限り希薄化する力が働いた。「平和と繁栄」の物語が、敗戦の意味の希薄化に役立った。一方、密教の次元では、指導層が自らの後ろ盾となったアメリカに対して、無制限かつ恒久的な従属を志向した。指導層は、対米独立や戦後レジームの終わりを主張しながら、それを決して実現させないことを前提としてきた。この二重性こそ、永続敗戦レジームである。


 戦後の国体が、明治憲法下と同様の二重性を持ち、更に同じように今や顕教部分が密教部分を呑み込もうとしている、というのが著者の見立てである。大衆向けとしては、アジアに対する敗戦の事実を出来るだけ否認しなくてはならない。否認が可能だったのは、東アジアにおける日本経済の圧倒的な優位のお陰だった。それが揺らいだ時、永続敗戦レジームは維持出来なくなる。顕教部分が密教部分を呑み込む。その時、指導層は夜郎自大なナショナリズムを、押さえられないというのだ。関連する領土問題の説明も、実に的確だ。

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