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2012年11月13日火曜日

「関係の空気」「場の空気」

「関係の空気」 「場の空気」 (講談社現代新書)
冷泉彰彦『「関係の空気」 「場の空気」 (講談社現代新書)』、2006。 

 「空気」については、KY(=空気を読めない人=場の雰囲気・状況を察することが出来ない人)という語が流行した。多分、私たち日本人は、意識するとしないとに関わらず、「空気」を日常生活でいつも気にしている。ただ、「空気」そのものが何なのかは、その特性からあまり問題とはされない。

 この本は、日本における「空気」の先行研究を踏まえ、そこに日本語の問題という観点を加えて現代の日本社会を考察している。更に、最終章では「空気」への対処法として、日本語の使い方という点から、いくつもの具体的提案をしていて面白い。

 先行研究とは、山本七平「空気の研究」(1977文藝春秋=1983文春文庫)である。山本の研究が、第三章「場の空気~「『空気の研究』から三十年」において、かなり丁寧に紹介されている。そこでは「空気の研究」が、「日本社会を理解する上で、今でも必読図書のナンバーワン」と高く評価されている。そして、「山本亡き後も猛威を振るう空気」として、日本社会における「空気」の跋扈が、バブルの膨張と崩壊、郵政民営化、ライブドアなどを例として、説明されている。

 著者は、アメリカで大学生に日本語を教えているようだ。そこで、日本語の特性として、短縮表現が会話の中で効果を上げることに気付く。大幅な省略があるのに、互いに会話が成立するのは、そこに「空気」があるから、ということに着眼する。著者は、一対一の関係における会話における「空気」を「関係の空気」と呼び、三人以上の場における「空気」を「場の空気」と呼んで、区別することを提案している。そして、この二種類の「空気」について、「非常におおざっぱではあるが、『場の空気』には問題があり、『関係の空気』はむしろ必要なもの、という仮説をもちながら論を進めてみたい」と言う。この場合、山本が問題とした「空気」は、「場の空気」に当たるだろう

 「空気」を二つに分類したことで、「関係の空気」の効用が浮かび上がってくる。更に、それが今日希薄化している、という指摘が続く。私たちは、「関係の空気」の中で、それを前提に会話していたのに、それが希薄化すると同じ事を言っても相手に通じない、ということが起こる。自殺者の急増、学校でのいじめなど、空気不足による会話の不全の例が語られると、なるほどなと思う。

 一方で、「場の空気」の方は、相変わらず跋扈している。「関係の空気」には会話する二人に対等性がみられるが、「場の空気」には、権力が特徴だ。その際、公的空間に私的な空気が持ちこまれる時に権力が生まれる、という指摘は斬新だと思う。元首相の演説やテレビタレントの語り口などを取り上げての説明は、説得力があると感じた。

 こうした指摘を基にして、最終章では「日本語をどう使うか」と題して、五つの提案をしている。いずれも重要だが、中でも、教育現場では「です」「ます」のコミュニケーションを教えよ、という主張には全面的に賛成だ。

 「空気」は、まずは論理の対象でないからこそ「空気」と呼ばれる。だからこそ、この本のように、「空気」を対象化して論理で説明すると同時に、具体的な対応を考え、更に意識的に実践するということがとても重要だと思う。そうした努力を通じて、「空気」に振り回されず、「空気」とうまく付き合うことが、少しずつ可能になるのだろう。

「空気」の研究 (山本七平ライブラリー) 「上から目線」の時代 (講談社現代新書) 二人称の死―西田・大拙・西谷の思想をめぐって