ラベル

2012年8月3日金曜日

われらゲームの世代32

ソーシュル的世界観

たぶん、ゲド戦記の世界観が面白かったのは、今からみるとそこにソシュール的な言語論的世界をみることが出来るからだろう。事物にこだわるのではなく、名前にこだわるのだ。言語こそがこの世界の源なのだ。

もう古い話だが、ソシュールは一般言語学講義で世界は言語として分節化されていると言ったようだ。正確には、彼のオリジナル原稿は残っていないというから、もしかすると丸山圭三郎が勝手に創作したのかもしれない(そういえば、彼の本でドラクエやファミコンに触れられているものがあったはずだ。読み直してみよう)。いずれにせよ、この世界の本質は、先に事物があり、それに人間が名前をラベルのように張り付けたのではない。逆である。ラベルが張り付けられた時、当のその事物が分節化され、事物化されたのである。

このラベリングは、個別にひとつひとつ行われた訳ではない。分節化は一挙に与えられる。すなわち、一つのラベルは、そのラベルとしてあるわけではなく、他のラベルとの差異によって維持されている。このラベルの体系が、ある時一挙に世界を分節化した。ゲド戦記で言えば、あるときにセポイが一挙にこの世界を立ち上げたのだ。そして以降は、われわれはこの世界の名前を忘れ、事物こそが本質であると見なすようになった。

太古から生きてきた竜は、しかし、そのセポイの創世を覚えている。名前が一挙に与えられたというそのときこそが、世界の始まりであり、物事の真の姿である。名前を明らかにする魔法使いの試みは、それ故に世界に触れる試みとなる。

しかし、当のセポイとは何であろうか。名前を与えることで世界を創世したセポイとは、いったいどういう存在だったのだろうか。それを神とよぶのならば、神はこの世界にとっていかなる存在ということになるのだろう。一つに、この世界に対して超越的なセポイは外部の存在であり、あるいは彼もまた、もっと広い名付けの瞬間に生まれたのかもしれないと見なしうる。

そうした無限に広がりかねない世界観を収束させようとすれば、当のセポイを、今一度この世界の中に埋め込み直すという作業が必要になるだろう。ゲド戦記で言えば、転生させればよい。この世界の中にあって名前の影響を受けつつ、しかしすべての名前を知り、世界を創世しうるゲドこそ、この世界を司るにふさわしい特異点に他ならない。

一般言語学第三回講義―コンスタンタンによる講義記録+ソシュールの自筆講義メモソシュールを読む (岩波セミナーブックス 2)言葉・狂気・エロス 無意識の深みにうごめくもの (講談社学術文庫)