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2012年7月19日木曜日

歴史ifに学ぶ 経営の神秘

歴史ifに学ぶ経営の神秘
腰越勉『歴史ifに学ぶ 経営の神秘』丸善プラネット株式会社、2005。 

先に書いた何かの書評の際(あるいは、ゲームの世代)、たまたま検索して見つけた書籍である。とてもタイトルが興味深く中身も調べずに買ったのだが、変わった本だった。特別書評する必要もないのだが、せっかくだから感想を書いておこう。ここからいくつか新しい議論の方向性を引き出せる。

本書では、過去の歴史を現代の経営学の視点から捉え直そうとしている。その上でさらに、現代の経営に役立てられる示唆を得ようというわけである。対象となる歴史はずいぶんと多岐にわたり、持統天皇から古代ローマ、さらには毛沢東まで幅広い。いずれも、現代の経営にとって役立つ知見がある、はずだというわけだ。

面白い試みだが、内容的には少なくとも2つ問題がある。一つは、歴史を現代の経営学の視点から捉えることにどういう意味があるのかという点である。少なくとも、持統天皇に現代の経営学の知見があったはずもない。フラジャイルという言葉も知らないだろう。

もちろん、当時の彼らは知らなかったが、今からみれば彼らはそういうことをしていたのだ、ということはできる。もしそうであれば、しかし、なぜあえてそういわねばならないかを問い直す必要があるように思う。彼らの歴史でなければ見出せなかった新しい発見が必要だろう(過去に学ぶとはそういうことだ)。まさに、現代の経営にとって何が新しく役に立つのかが重要であり、それはひいては、例えばフラジャイルの批判へと繋がるはずである。天皇制もルイ・ヴィトンも同じであれば、ルイ・ヴィトンをみるだけで経営的には事足りる。

もう一つは、より根本的である。この本を購入したのは、歴史のifにひかれたからであった。本書を貫通するテーマが編集であるという点に象徴されるように、歴史はつねにifを呼び込んでいる。武田勝頼が真田昌幸の言うことを聞くか、小山田信茂の言うことを聞くか。それこそが必然ではなく、どちらでもありえたifの世界なのである。

究極の意思決定にifを呼び込み、あるいは違う世界がありえたかもしれないことを問い直すこと。経営の本質はたぶんこういうところにしかない。経営者の役割は必然の世界を歩くことではなく(であれば、誰でもできることになる)、常にifが広がる世界の中を少しでも進んでいくことであるはずだ。

せっかくのifを封じ込め、歴史を必然として描いてもあまり面白さはない。ましてや、ことさら現代の経営の論理で合理化しても仕方がない(もちろん一方で、本来の歴史研究であれば、この意思決定がいかにして導かれたのかを詳細に考察するということもできるだろう)。経営の神秘性は、もしそういうものがあるとすれば、ifに開かれた可能性にこそ見出せる。

新版 経営行動―経営組織における意思決定過程の研究創造する経営者 (ドラッカー名著集 6)バーナード (経営学史叢書)