ラベル

2012年7月25日水曜日

われらゲームの世代26

RPGにおける選択

選択の必然性は、やがて、一本調子として批判の対象とされるようにもなっていく。この辺りはゲーム愛好家の中でも批判があり、外野からの批判としてもあったように思う。

外野の批判としては、すでに与えられた世界の中で遊ばされているというあれである。一見自由のように見えて、何ら自由はない。途中右往左往はあるが、レベルを挙げ、洞窟を探索し、向こう側の町に向かい、結局は魔王を倒す一本の道というわけである。

どちらからの批判に答えたのかは分からないが、こうした批判に対応した一つの形がマルチエンディングだったのだろう。ドラクエやFFでは採用されなかったように思うが、例えば女神転生などはマルチエンディングの形をとっていた。カオスとロー、それからニュートラルでラスボスは違っていた。

僕自身はどちらでもよかった。むしろ、マルチエンディングは複数回クリアしなくてはストーリーの全体像が捉えられない。一回で済む方が、個人的にはやりやすかった(一応補足しておくと、僕は女神転生Ⅱあたりが一番好きな世界観である。ニュートラルで人間の世界を築くのだ)。

僕にとってゲームは、多分理解すべき一つの世界であり、その意味では小説だったのかもしれない。小説を読み解くのに、一度読んだだけでは全体像が分からず、別のものを読まねばならないというのは苦痛である。できるだけ一回で理解したい。

あるいは、ゲームという意味では、オチよりもプロセスが大事なのだという主張も可能だっただろう。この考え方は、ストーリーは常に再解釈される余地があるという物語論の基本にものっとったアイデアといえる。

一本調子批判への対応は、その他には、そもそも目的がない、何をしても自由というゲームもあった。先に少し見たルナティック・ドーンやソード・ワールドはそちらのRPGということになる。これはこれで面白かったけれど、目的がないというのも退屈なところだ。自分で目的を見出して遊ぶことになるが、大体飽きてしまったような気がする。

一本調子であるということについて、いったいいかなる問題があるのか、僕にはよくわからない。ゲーマーとしては、どちらでもいい。外野からの批判に対しては、小説と同じじゃないのかと言っておけばいいような気がする。物語の構造というのは、一本調子であるかどうかなどとはまた別のところで理解されるはずだ。

物語工学論物語論―プロップからエーコまで (文庫クセジュ)昔話の形態学 (叢書 記号学的実践)