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2012年7月13日金曜日

われらゲームの世代18

マリオブラザーズの「ルール」

マリオブラザーズの遊び方がわかるようになるにあわせ、僕は様々なゲームソフトで遊ぶようになった。当初は家族で遊んでいたが、間もなく、友達とファミコンで遊ぶようになったと思う。友達は僕が持っていないゲームソフトを持っていて、友達の家でそれを遊んだり、あるいは借りたりして遊ぶようになった。

時期的にいつ買ったのかは覚えていないが、F-1やゴルフといったゲームソフトを覚えている。どちらも今思えば大したゲームではないのだが、よく遊んだ。ゴルフは特に音もなく、実に地味な限りだが、ボタンを押す瞬間のずれでショットが大きくずれていく。スピンのようなものをかけられたかどうかわからないが、一種の対戦ゲームとして友達と遊びやすかった。

そういえばマリオブラザーズも2人で遊ぶことができた。こちらは協力してクリアしていくことになるが、そのうちループする世界の中でゲームのルールが変わることもある。ステージを協力してクリアするのではなく、お互いを殺し合うというルールへの変更である。『教養としてのゲーム史』によれば、これ自体は最初から想定されていたルールではあったらしい。通常、それは合意の下でなされることもあれば、期せずして、けんかのような形で変更されることもあった。

亀をやっつけるためには、最初に下から突き上げて動きを止め、その上で亀に横からぶつかる必要がある。この際、2人いれば効率的な連係プレイが可能になる。一人が下から突き上げ、もう一人が止まったと同時にぶつかるというわけだ。だが、このタイミングがずれてしまったり、ちょっとふざけて動きを止めなかったりすることがある。そうなると、ぶつかる気まんまんだった一人は、そのまま動いている亀にぶつかってやられてしまう。そこでルールが変わる。やったな、この野郎、というわけである。

ルールの反転は興味深い。大学の友人がこの話を熱く語っていた。協力することを前提に作られたはずのゲームの中で、しかしいつでも当たり前のように、逆に殺し合うゲームが始まる。その新しいゲームは僕たちをけんかさせることもあるけれど、逆にそれで盛り上がることもある。協力しながらも、一方で、裏切られるかもしれない(それはゲームの中だから、常に冗談を伴うわけだが)という意識がゲームを面白くする。設定されていようがいまいが、ルールとはそういうものだというわけだ。

さっきの子供の僕のマリオブラザーズを思い出せば、もっといろいろマイルールはあったのかもしれない。僕にとっては、それは単調ないつかくる死に向かって逃げ続けるだけのゲームでもありえた。3面のボーナスゲームだけに特化して、クリアタイムを競うというゲームだってありえた。とにかくループに挑み続ける挑戦だった可能だったはずだ。

当時の僕たちに対して、テレビゲームなんて与えられた枠組みの中で遊ぶな、もっと自由に外に出て遊ぶべきだと言った人もいた。マイクを通して、そんなことを言うおかしな人もいた。その言葉は、そのままその人に投げ返すべきだっただろう。そんな言い方こそが、与えられた枠組みだったのだ。もっと自由に外にでて、何なら僕たちのところにきて、一緒に考えたらよかったのに。彼らはとうの昔に死んでしまっただろうけれど、代わりに僕たちがこうして生きている。そういうものだ。


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