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2012年7月10日火曜日

われらゲームの世代15

マリオブラザーズ
ゲームの初め

過去をつらつら思い出すことは、決してノスタルジアではない。未来への発見なのである。今のイメージでいうと、過去はパズルというか万華鏡であり、覗き込むたびに形が変わる。そして、その形が変わることで、未来への発見が生まれる。(この比喩は、映画にもなったタイムパラドクスストーリー「Jin-仁」の映像そのままである。)

というわけで、もっと遡ってみよう。ゲームの最初を思い出してみるのも悪くない。僕が初めてファミリーコンピュータなる機械を見たのは、祖父の家の近くに住んでいたお兄さん(というべきだろう)の家だった。彼は僕よりもずいぶんと年齢が上で、僕が小学1年生のときに6年生だったと思う。その彼の家に、多分小学生に上がる直前ぐらいに遊びにいった時、そのゲーム機を見たのだった。

ファミリーコンピュータは、1983年に発売されている。年齢的に見ても、僕が5歳のころのはずだから、記憶は大体合っているように思う。彼は、どうやらファミコンが発売されてすぐに購入していたということになる。ファミコンがどのくらい当時の子供たちの間で急速に広まったのかよく知らないが、多分一般的な家庭だったはずの彼が早々に持っていたということから考えると、ずいぶんと一気に普及したのかもしれない。

何で遊んだのかは覚えていないが、たぶんドンキーコングをやっていたのではないかと思う。それが僕には何なのかよくわからなかったが、面白そうな感じ、という印象だけが残った。それまではたぶん見るだけであったテレビを前にして、自分たちが動かすキャラクターが動くのだ。

テレビの前で受動的だった僕たちが、テレビに対して能動的になった瞬間かもしれない。そういえば、昔、『コミュニケーション・メディア』という本の中で、パノプティコンモデルからテレビのモデルへの変化が紹介されていた。パノプティコンモデルでは、僕たちは監視者から見られている(かもしれない)存在であり、その恐怖が、やがて自分で自分を監視するという形で反転して取り込まれ、内面化(主体化)される。これに対して、テレビのモデルでは、監視者の座に新たにテレビが位置付けられ、僕たちはテレビを見せられる存在となる。テレビは憧れの芸能人や海外の生活が映し出し、僕たちはそのテレビの世界を自らの理想として規律化していく。

なるほどと思ったのだが、ゲームというアイデアをここに組み込んでみるとどうだろう。ゲームの時代では、僕たちはテレビを見せられているのではなく、テレビに半ば入り込むことになる。映し出されるドンキーコングやマリオは、僕たち自身である。僕たちはそこに自分自身を見出し、その自分の成功(ゲームクリア)に酔いしれることになる。主体化、あるいは規律化という点では、それは出発点を欠いた自己言及的な運動となる(もっとも、本の中では、この議論は自分たちがテレビに取材などで映り込む可能性として、書かれていたような気もする)。

このあたり、もっと言えば、『電脳遊戯の少年少女たち』で似たような話が書かれていた気もする(今思うとすごいタイトルだ、1999年に発行されている)。僕たちはゲームに没入して同一化する。同時に、僕たちはゲームの支配者でもあり、そこには超越性が生じる。没入と超越がシンクロする世界、それがゲームの世界だというわけである。この場合には主体化の議論は出てこないが、それでもゲームを通じて、僕たちの主体化や存在までがとえてしまうのかもしれない。

コミュニケーション・メディア―分離と結合の力学監獄の誕生―監視と処罰電脳遊戯の少年少女たち (講談社現代新書)