ラベル

2012年6月26日火曜日

われらゲームの世代5

ゲームを語ることで何を語れるか

今更、遥か昔のゲームソフト、水滸伝を語ることにどういう意味があるのか、今のところ僕もよくわからない。最初にも述べたように、それで懐かしさを感じて終わりではなく、僕たちは今に戻ってこなければならない。

とりあえず書き始めてみたのだが、水滸伝を手がかりにして、いろいろと記憶がよみがえることは確かだ。ゲームの存在が僕の記憶をたぐり寄せたり、それから他の記憶につながったり、あるいは今、実はネットで検索しながら記憶の正確さを補完している時、新しい情報を手に入れられている。先の一文では、最近の水滸伝小説の状況を知ることができた。北方謙三が水滸伝の続編的小説を次々に書いているようだ。大変興味深い。こうした新しい発見は、今だからこそと言えるかもしれない。昔話を「語る」ということにはそれなりに新しい発見を伴うのだろう。

その他で思い出したことと言えば、例えば、水滸伝というゲームソフトは、それほど売れたわけではないのだろうけど、僕が大学生の頃に水滸伝2が続編として発売された。ゲームの仕様は少し変わってしまったが、それでもこれも面白いゲームだった。だが興味深いことに、こちらのゲームについての記憶はほとんど残っていない。最初の水滸伝よりもずいぶんと最近の話だし、確かに購入してゲームをしていたにも関わらずである。これはどうしてだろうか。 

おそらく、水滸伝2は僕の人生と強く結びつくことなく流れていってしまったのだろう。思い出せるのは、最初の水滸伝の方ばかりだ。アンケート手紙を書いたことも覚えている。結局投函はしなかった(切手を買ってはる必要があったから)と思うが、そこに、ぜひ水滸伝2を出してほしいと書いた。後日、友達に水滸伝のゲームソフトを貸した際、それを見られてちょっと恥ずかしい思いをしたような記憶も思い出せる。

ゲームは僕にとって記憶のラベルであり、それを通じて何かを引っ張りだせる。あるいは、他の要素を繋ぎ合わせ、新しい何かをみつけることができそうだ。こうして公開するということは、他の方からもこうした繋ぎ合わせや発見の契機をもらえるのかもしれない。シュンペーターばりに、新結合といってみようか(もちろん、ラベルの飛躍である)。

せっかくだから、もっと思い出せるだけ思い出してみよう。一種の連想だ。僕は、あの期末試験の初日に、水滸伝というゲームソフトを購入して遊んだ。そもそも、水滸伝を買おうと思ったのはなぜだっただろう。その前に、三国志と信長の野望という今も続く光栄の定番ゲームソフトを遊んでいたからだ。

では、その三国志と信長の野望を知ったのはどうしてだろうか。ここまで遡ると、僕はもう少し新しいエピソードを思い出す。

喪失とノスタルジア - 近代日本の余白へノスタルジアの考古学大正ロマン手帖---ノスタルジック&モダンの世界 (らんぷの本)