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2012年6月22日金曜日

われらゲームの世代1

われらゲームの世代ことはじめ

先日60代の方とお話ししていて、おもいがけず今の自分やこうしてあれやこれや書いている文章のルーツを考えることになった。やはり、文学青年だったというよりは、ゲーマーだったと言った方がしっくりくる。たくさん本を読んだ記憶もあるけれど、それ以上に真剣だったのはゲームの方だった。授業中も、いつもゲームの展開を考えていた。小学生の頃にはまっていたのは信長の野望で、誰を戦力に加え、どのように領地を広げるべきか。もう残ってはいないけれど、僕の当時のノートにはあれやこれや書込みがあったと思う。それでよく先生には怒られたけど、ノートに何を書くかは僕の自由である。

ゲームを作りたいと思っていた。それは今も変わらない。ちょっと技術が進歩し高度になりすぎてしまって、仕事も忙しくなってきて、今では到底不可能だろうけれど、シンプルなシミュレーションゲーム、ロープルレイングゲームを考えてみたい。ずっとそうしたいと思ってきたし、時々密かにシナリオを書いてみたり、プログラムを組もうと思ったりしてみた。その都度自分で確信したのは、残念ながらそういう才能はなさそうだということだった。

ゲームの力は偉大で、その力を通じて僕たちは世界を形作っていたように思う。それはゲームという仮想の空間を超えて、僕たちの現実にまで確実に力を及ぼしていた。学校で友達と遊ぼうと思えばゲームが必要だったし、ゲームをネタにして盛り上がることもできた。親や社会との接点も、ゲームをしたい/してはいけないというコードの中で捉えることができそうだ。もちろんゲームと縁のない友達もいたけれど、彼等とて、ゲームをしなかった、あるいはしたくてもできなかった友達として、僕たちの輪の中に入っている。

時代的にいえば、ゲームは一大産業を形成し、やがて僕たちは経済についてもゲームで学んだ。中古品が登場し、自分たちが買ったゲームソフトもまた、売ることができることに気づいた。ネットのない時代、価格は統制されておらず、せどりが様々な形で可能だった。

別に僕は、ここで昔を懐かしもうというつもりはない。いや、正確にいえば、少しはあるかもしれないが、だからといってその昔の記憶に浸りたい、現実を逃避したいというわけではない。時々昔を懐かしむのは良いことだが、それを美化しても仕方がない。僕たちは今に生きている。思い立ってこうして書き始めたのは、僕たちのゲームの時代を通して、今の僕たちが何を考え、またなにをなすべきか(そこまで強い当為はない)を考えられるような気がしたからである。

この文章は、そういう意味でまずは僕たちの世代に向けて書かれている。僕が1970年代後半生まれだから、だいたい現在の30代ということになるだろう。そういえばある方達からは、僕たちはロスジェネ世代(ロスト・ジェネレーション)だと聞いた。良い言葉だと思う。僕たちの世代は、多分上と下に挟まれて、実際的に失われている気がする。そういえば、僕たちの一つ下の世代の方が、先に頭角を現して00世代などといわれていたような気もする(正確な意味は知らない)。

けれども、僕たちはよくも悪くもこうして存在してしまっていて、確実に年を取りつつある。大卒で入社していればすでに10年戦士を超えた。そろそろ中堅と呼ばれるようにもなり、責任ある仕事にもつき始めるころだろう。転職を考え始めて、実際に新しい生活をはじめる頃かもしれない。ロスジェネだろうが何だろうが、確実に僕たちは何かをなしつつあるし、また、なさなさねばならない状況になりつつある。ちょっとここで考えてみるのは悪くないはずだ。

以下ではとりとめもなく、僕たち(より正確には、僕個人)の過去を思い出しながら、改めてそれを今に関連づけていこうと思う。一つの鍵となるのは、ゲームの存在である。僕たちは、自分たちの人生をもしかしたらゲームのように感じているかもしれない。その意味でもゲームの世代だ。失われてしまうような世代というのも、要するにそれがゲームみたいなものだからかもしれない。

  ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1) ロスジェネの逆襲 ロストジェネレーションの逆襲 (朝日新書 77)