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2012年5月12日土曜日

日本社会で生きるということ


阿部謹也『日本社会で生きるということ』朝日文庫、1999=2003

著者の阿部謹也(1935-2006)は、ドイツ中世史の研究者。西洋史研究の傍ら、日本社会についても考察を重ねた。日本社会論としては、「世間とは何か」(講談社現代新書1995)がよく知られている。日本では個人と社会との間に「世間」が存在する、そして人々はその「世間」を前提に生活しているという彼の指摘は、多くの日本人にとって当たり前であったが、にもかかわらず斬新だった。「世間」は、言葉ではうまく対象化出来ないものだからだ。阿部はこの本の反響について、「学者諸氏の反応は全くなかったが、読者の反応は大きかった」と書いている。

その後、阿部は一橋大学学長、国立大学協会会長など要職を勤めつつ、日本の「世間」に関する研究を進め、更に読者の要請に応えて各地で講演を行った。「日本社会で生きるということ」は、1990年代後半に人権問題講習会などで行われた五つの講演を1冊にまとめたのものである。

講演のタイトルは、次の通りである。

1 「世間と日本人−新しい差別論のために」
2 「世間」とは何か
3 差別とは何か
4 公衆衛生と「世間」
5 日本の教育に欠けているもの  

阿部が、日本人にとって「世間」の重要性に気付いたのは、ドイツで生活している時だったという。個人と社会の関係が、ヨーロッパと日本ではまるで異なる。にもかかわらず、日本ではあたかもヨーロッパと同じく社会と対峙する個人が存在すると建前上前提されているという。

日本では、世間を前提しないと大人として生きられない。この本の最後の講演「日本の教育に欠けているもの」の中で、阿部が語っていることは、私には衝撃であった。「私が自分の学生たちを見てて問題だと思うのは、両親が小学校の先生だという子供です。そういう学生に会うと多少用心します。それは配慮しなくてはいけないことが多すぎるからです。・・・家庭の中でも教師としての建前を実践し、それを社会に示さなくてはいけないのが教師なのです。気の毒だと思います。そういう建前はすっきりやめて、本音で教えなくてはいけない。しかし、本音で語るには1人ひとりが力がないとできないのです。力がない教師は建前にすがり、そして自分の子供にも建前だけで対応しようとするものです。」

「世間」という対象化しにくい現実を、阿部は講演の中で具体例を挙げつつ分かり易く語っている。しかし、勿論分かるけれどもそれを対象化し相対化することは、とても難しいとやはり思う。
(代理投稿)